Fish
ホロウ・シカエルボク
早い朝の淡い光線に君は濡れながらそれでも整然とした様子でそこに生きていた、俺は喉に突っかかるような痛みを覚えながら君の名前を呼ぼうとしたが、記憶に栓をされているみたいにそれはままならなかった。伸びすぎた前髪が警告のように風に揺れて目の前に垂れさがる、それは君の姿をキャベツのように細かく刻んでしまう、初夏の草のにおいがうるさいくらい俺たちの周辺で騒いで、それだけで俺はなにかこの場にそぐわない己の魂のことをこの上なく恥じてしまうのだ。夜っぴて降り続いた雨の後の朝に遠くからやってくる風にはすうすうという音が似合う、悪夢に浸食されない寝息のようなノイズ。もうなにも咲かない枝のそばで君は遊んでいた。俺は傀儡みたいなものなんだ、と呟くと、枝の先を指先で転がしながらふふ、と短く笑った。俺は慰めてもらいたいわけではなかった、ただ、そんな感情がここにあるということを、認めてもらいたいと思っていただけなのだ。だけど、そんなささやかなすれ違いはいまに始まったことではないし、特別苛立たせるような何かがそこにあったわけではなかったから、俺は口をつぐんで笑い返した。それはまるで笑うという行為とはかけ離れたものに思えて、神経が二、三本断線しているのではないのかと勘繰らなければならなかった。低木は嫌いだ、いつでも予期せぬものを下から覗かれているような気がするから。見せるまい、と躍起になって睨みつけてしまう。だけど、どれだけそんなことに心血を注いだところで、結局のところそれは予期せぬものを覆い隠すことにはならないのだ。ああ、と俺は声を吐いた。君は少しだけこちらを振り向こうとしたが、いつものため息だと悟ったのだろう、黙って消えない程度に先に進んでいた。君はそういう歩き方がとても上手だった。もう少し上手に感謝できる人間であればよかったな、と今更ながら俺は考えるのだ。そしてそのせいでため息の理由を足元の草むらに落としてしまう。落とされた理由は妙に腹のでかい蟻にさらわれて運ばれていく。蟻よ、やめておけよ、そんなものを献上したって、女王は喜ぶことなんかないよ。蟻と意思の疎通を図るすべを自分が持っていないことに俺はうんざりする。なにか伝えるべきことを持っているのに、伝達する手段がない。本当に無力と呼ばれるのはそういう類の事柄であるべきだ。俺は止めていた歩みを再び始める。君がそれとなくこちらを気遣いながら歩くにも限界があるのだ。君のさりげなさだけは壊したくないと思う、君が薄い氷の上を歩くみたいにさりげなくこちらを気遣って歩いてくれていることだけは、このまま俺が俺に戻ることが出来なくっても壊したくないと思う。ねえ俺、不安なんだ、すごくすごく。だけど、子供のころから怖いって叫べない子供だったんだよ。いつでも一人になるまで、泣くことも出来ない子供だったんだ。どうしてかなんて説明出来ない、だから今でもそんなままなのさ。平気な顔ばかりしているとどんな心を抱えていても普通に暮らしてるみたいに見せることが出来る。そんな風にして少しずつ狂っていったんだ。普通の顔をしたままなにかが狂い続けているのさ。表向きの平静に感化されちまったのか、音もさせずにパズルのピースを取りかえるように狂っているんだ。そういうのってボーダーラインを越えることが出来ないんだよ、心が狂気に順応していくからさ、ボーダーラインであるべき位置にたどりつくころには、ボーダーラインは数歩先の辺りでにやにやしながらこちらのことを眺めている。ほら、なんでもない。順応してしまった感情はそんな認識を当り前のように受け入れてしまう、そうしてひとつひとつが少しずつずれていく。ゴールテープが移動し続けるマラソンみたいなものさ。ゴールテープが見えていると、ランナーは諦めないだろう。ばたりと倒れるまでは。そんなこと、どうでもいい話かもな。俺だけが理解していれば済む話だ。なにもかも理解してみたところでどうすることも出来はしない、予期せぬものを下から覗かれているみたいにさ。見失わない距離に居てくれる君の背中を俺は眺める。俺は感動して泣いてしまうのだ。母親のような遠慮のない愛とは違う、背中の在り方。君はいつでも俺のことを待ってくれている。ありがとう、ありがとう、君が道標になってくれる間だけは、俺は正気でいることが出来るような気がするよ。鳥たちの声が高くなり、気温が上がり始める。ねえ君、太陽が昇るよ。君、明るくなる。俺は君の背中を追う。君の気遣いを無駄にしてしまうような速度で。君は振り返って涙の乾いた俺の頬を見る。そして笑うのだ。ちゃんと見ていたいのに君の後ろから太陽が昇り始める。