豊年海老の頃
taznu
わたし
(これは人間になってから知ったのだけれど)
以前は棚田のホウネンエビでした。
ある暑い夏の日に
BOSEのヘッドフォンで音楽を聴きながら歩いていたのです。
ちょうどドビュッシーの夏の風の神がかかり始めた時
図書館が見えて
緑が多くてなんとも涼しげで
(ほら、ヘッドフォンが暑くて暑くてもう耳はびしょびしょだったものだから)
ぴんぽろん というピアノの音色に身をまかせて入っていたのです。
借りたい本があったわけではないから
とりあえず書架の間を縫って歩いて行きました。
明るい方へ吸い寄せられて行くと、
そこは児童書のコーナーで
子供の丈に合わせられた本箱の上に木漏れ日が煌めいてなんとも爽やかに見えました。
まだ夏休みに入っていなかったので平日のお昼間の児童書コーナーには誰もいません。
わたしは小さな椅子にそっと腰掛け何とは無しに本箱を見回しました。
すると黄緑色の背表紙の本がふと目に止まったのです。
白抜きの文字で田んぼの生き物図鑑とありました。
わたしは何故だか無性に切なくなって
その図鑑を手に取り開いてみたのです。
中には水蟷螂や蛭や雨蛙のたくさんの写真。
その中にまざって
(‥‥嗚呼‥)
懐かしい姿。
半透明の殻が陽に透けてなんてキレイなのかしら。
小さな真っ黒の眼が二つずつ皆こちらを見ていました。
(‥わたしの兄弟達‥‥)
そうして人間のわたしは、あの頃のこと
あの揺らめく水面の下で青々とした稲のさざめく音を聴きながら
自分がホウネンエビ(英語ではフェアリーシュリンプとか)だとも知らずに
けれどもすべてをよく見聞きし理解して生きていた時のことを
ありありと思い出して、
たった独りであの棚田の水のような涙を二粒きり零したのです。
[「6つの古代墓碑銘」夏の風の神/Debussy]