現代詩を書いたわけと書かなくなったわけ
KETIPA

現代詩以前にも詩は数編書いていた。


今読み返してみれば、季語ならぬ詩語を並べて詩風にしただけの取るに足らないもの、もしくは、単に思ったことを少しひねた言葉にかえただけのものでしかない。いわゆるポエムと大差はなかった。


吉増剛造さんの詩がそれを変えた。


それは今までの狭い詩感を完全に変えた。現代詩が追加された。なんだこれでよかったんだ。文法を捨てるのに抵抗はなかった。


それ以降の詩は、文法を崩し実験的な表現を試みるものになった。もっともそれまでにも、多少言葉の配列を崩そうとしたものもあった(「ColdBark」など)ものの、それがより先鋭的なものになった。

ただしそれも、詩語ならぬ現代詩語を、現代詩文法を、一歩も越えるものではなかった。おのおのの詩に用いた表現それ自体には、これまで使われていなかった手法があったかもしれない。しかしそれだって、現代詩風の言葉や文字の羅列以上の何者にもならなかった。表現のための表現に限界を感じるのにそれほど時間は必要なかった。



芯となる、核となる、文字の連なりに付加価値を与える要素がぽっかりと欠如していた。



それを自覚してからは、どう文字や言葉を配置しても、記号的な意味以上を想起するものにならなかった。いや最初から、現代詩だと自称していたものは、単語の組み合わせと切断の産物でしかなかったのかもしれない。そうなってしまってからは、詩を(あるいは詩以前のものを)書かなくなった。時々言葉の羅列で気を紛らすことはあったものの、それはもはや詩ではなかった。


よく考えれば、一読者として現代詩を読む時も、それを一つの詩ではなく、「現代詩」として扱っていたような気がする。ひどい時には(というより恒常的に)、ざっと「現代詩」を眺めて、面白い言葉の配列に脊髄反射的に反応していたように思う。詩を味わう素質(ないし余裕)が欠落していたか、あるいはそれが自分なりの詩の読み方だったか、どちらにしても徐々に詩を読むことからも離れていった。



現代詩を書かなくなって、書けなくなって、三ヶ月ほど経っている。現代詩に失意を感じているなら、こんな文章は書かない。まだ現代詩が心を揺さぶってくれることを、どこかで期待しているのかもしれない。でもそれが「現代詩」である以上、こちらがそれを「現代詩」として読んでしまう。そうなると、やはり言葉達はさらりと頭からこぼれ落ちていって、本質的な芯や核が残らないままページを閉じてしまうだろう。それでは、詩に対して、順番を狂わせた辞書を読んでいるのと大差ない感想しか抱けないのかもしれない。


「現代詩」を、詩として読むことは、誰にでもできることだとは思っていなかったけれども。


散文(批評随筆小説等) 現代詩を書いたわけと書かなくなったわけ Copyright KETIPA 2009-05-23 00:19:03
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