詩を書く者の責任とは、
白井明大
詩をなぜ書くのか、といわれれば、ただ、ことばを書きたいように書いており、それが、詩といえば詩、というものになるということ。
ただ、詩は、これまでどのような役割を果たしてきただろう、と思うと、またべつのこたえが生まれる。
詩は、人の心そのものを支えるためにある。
そうばかりではなくてもいい。「ために」というものと関わりなく詩があってもいい。
それでもやはり、そうなのだ。
詩は、ときに、人の心を支える。
それが詩だと、ぼくは思っている。
ひるがえって、だれもがだれかの心を傷つけることがある。
傷つけられることもある。
それがいけないなどとは、一概に言えない。傷つくことと生きることがともにあるのがいのちかもしれない。
だとしても、だれかが不当に傷つけられているとき、そこでたちどまってしまうのだ。
そのとき、だれが傷つけているのか、だれが傷つけられているのか、それさえ見知ることは困難ではあるけれど、目をこらして、そこに気持ちを向けておこうと思う。
ショックのおおきいできごとが指摘されたとき、そこから何を捉え、どう発言に、行動にむすびつけていくか、できごとがショックなことであるほど、失敗しやすいものだけれども、それでも、慎重に、そのできごとにおいて、何をすべきか、できるか、気を付けなくてはいけないと思う。
詩人というものは、社会とどのようにコミットメントするのか、とつい先日、プランナーの人にきかれた。
社会にひずみが生じているとき、それを指摘し、そこからの脱出口のすじみちを想像することは、詩人が社会ともつ、ひとつの結びつきではないだろうか。
そのとき、責任とは、何だろう。
責任を負うとは、どのような意味なのだろう。
詩を書く者の責任とは、なににとらわれることなく、なにかを見つけ、指さす、そのようなことではないだろうか。
だれか詩人が、その指摘をなしたとき、そのことばをどう受け止めるかもまた、他の詩人に問われていることであり、負わされていることだと、心しておきたい。