恐竜のタマゴ
小池房枝

詩の生まれ方にもいろいろある
卵生
胎生
卵胎生

生きている詩ならば
生まれて生きる詩であるならば
金太郎飴をちょんちょん切って
毎日数だけ増やしてくってわけにはいかないだろう

卵で産むとしても
詩そのものを産むとしても
産みっぱなしの奴や
温めて孵して餌と排泄の世話までしてやる奴や
間違えたのかわざとか
自分の子供をまた飲み込んでしまう奴や

卵そのものにも
有声卵あり
無声卵あり
托卵なんて技まであるし

幼生なら幼生で
生まれたときから一人前なのも
どうしようもなく赤ちゃんなのもいるし
親に似てたり似てなかったり

でもまぁ
どんな姿かたち生まれ方でも
親と子は生物としては同じ種のはず
詩もまた何かしら詩であるものからだけ
生まれるものだろうか

そのときひとは
ひとの言葉は
卵の殻だろうか
DNAだろうか
栄養とか気温とか湿度だろうか

けれども
産むということは/生まれるということは
互いが
互いを手放すことで

氷河期が来ようと
隕石が降ろうと
いつまでも臍の緒で
繋がっているわけにもいかない


自由詩 恐竜のタマゴ Copyright 小池房枝 2009-05-07 21:51:05
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