魔法使い
ふるる

 少女がその魔法使いの弟子となったのは、魔法使いを一目で好きになってしまったからだ。川から涼しい風が吹いてきていたある夏の午後、川べりでうずくまる黒い影を少女は見た。すぐには魔法使いだとはわからず、古い農具の塊のように見えて、それが動いたのでびっくりしたのだ。魔法使いがこの村にいること、滅多に姿を現さないこと、薬などを作っているが、それが効くのか効かないのか分からないこと、はよく知られていた。そこで出された村人の結論は一つ、「魔法使いには近づくな」だった。
しかし少女は幼い好奇心から、動く黒いものが魔法使いであることを木陰から確かめ、一体何をしているのだろうと、そっと近寄ってみた。つい、と魔法使いのマントの中から何かが飛び出し、夕暮れの雲へ羽ばたいていった。
その薄紅の羽色から、あれは薔薇鳥だ、と少女は分かった。春に、愛する者への贈り物として、村の若者たちに羽をむしり取られた薔薇鳥は、茂みに隠れて次の羽がそろうのを待っていることが多い。中にはひどく傷ついて永遠に飛べなくなり、野犬の餌食になるものもある。春が過ぎれば薔薇鳥はどこかへ飛んでいってしまうので、夏にいるのは、傷ついた薔薇鳥だけだ。少女は思った。きっと、魔法使いは薔薇鳥の羽を魔法で治してやったのだ、と。その時、魔法使いが振り向いた。顔は年老いて樹木のようだったし、瞳は月のない夜空のような闇色だった。少女はその静かな深い色に心を奪われてしまったのだ。
 あくる日から、少女は森の奥深くにある魔法使いのすみかをたずね、是非弟子にして欲しい、と頼み込むようになった。何度断っても懲りずに少女が訪ねてくるので、魔法使いはとうとう「好きにするがいい」とつぶやいた。しかし、自分が教えるようなことは何もない、あそこにある魔法の本を読むことは許可する、と。
 少女は喜び勇んで魔法の本に取り掛かった。大半は抽象的な言葉の羅列で、意味がわかる時もあれば、わからない時もあった。少女はまた、魔法使いの身の回りの世話もかって出た。少女の家は大家族であり、末っ子である少女はかわいがられもしたが、いつも大勢のために働き、大勢の中に埋もれるばかりの暮らしでは嫌だったのだ。どうせなら尊敬できる人のところで、私だけができる手伝いをするんだ。
 家族は始めは反対したり、近所の噂になるので嫌な顔をしたりしていたが、少女が楽しそうであるのと、家事の腕がめきめき上がっていくので、早めの花嫁修業に出しているのだ、と思うことにした。誰も少女が本気で魔法の練習をしているとは思わなかった。
 こうして何年かが過ぎ、年頃の娘となった少女にはそろそろ縁談の話が持ち上がるようになった。森の恵みと規則正しい労働で作られた若木のようにしなやかな身体、そして魔法の本で得た知識や洞察の深さなど、娘になった少女には同じ年頃の娘たちにはないたおやかな美しさと、聡明さがあった。ある初夏の日、娘がいつものように魔法使いの家で働いていると、母親がやって来た。
「お前、いつまでもこんなところで花嫁修業してないで、そろそろいいお婿さんを見つけて結婚しなければいけないよ。」
娘が自分たちの子にしては見栄えが良く、聡明であるのに気づいた両親は、なるべく金持ちの所へ嫁がせるべきだと、話し合って来たのだ。
「だめよ、母さん。」
娘は薔薇の蕾に触れながら言った。
「私は魔法使いさんが好きなんだもの。それに。」
娘の白い指が薔薇の蕾を包み込んだ。すると、薔薇はくるくると花びらをほどき、見事な大輪となって咲いた。
「私はもう、魔法使い。人間のところには嫁げないわ。」
娘の差し出す薔薇の枝を、母親は悲しそうに受け取った。
 母親が帰ってしまうと、娘は、咲きそろった薔薇の花束を抱えて魔法使いの所へ戻った。出入り口で、魔法使いと鉢合わせになった。
「ねえ、今日は綺麗に咲かせたと思いませんか?お師匠様。」
娘はいつものように屈託なく、瑞々しい薔薇を掲げながら修行の成果を報告した。すると何があったのか、魔法使いは慌てたように娘と薔薇から目を逸らすと、無言でどこかへ出かけて行ってしまった。
 あくる日、娘が食卓にいつものように、黒パンや山羊の乳やはちみつ、木の実、卵料理、薬草のお茶などの食事を用意していると、魔法使いが現れた。顔には獣の皮で作ったような奇妙な仮面を被り、服はぶ厚い羊毛で作っているようだったが、真っ黒だった。娘は驚いて、仮面を見た。その奥にある、魔法使いの瞳も。それは相変わらず、月のない夜の、静かな闇だった。だが、もっと奥に、小さな星がかすかに、しかし力強くまたたいていた。
娘は驚いてお茶のポットを落としそうになったが気を取り直し、食事の用意の続きをするふりをしてそっとその場を離れた。そしてはやる胸を押さえて書庫へ向かった。たしか、あの本の、あのページにあったはず。そこには、こう書かれていたはずだ。

「魔法使いが恋をした時の注意:
どんなに年老いた魔法使いであっても、恋をすると、ふさわしい年齢にまで身体が若返ってしまう。
気づかれてはならない場合は、魔術を施した仮面や衣で隠すこと。
最も気をつけなければならないのは、瞳の奥の星である。その星を隠すことは、非常に難しい・・・・・」


散文(批評随筆小説等) 魔法使い Copyright ふるる 2009-04-20 16:41:16
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