ごめんなさい、という言葉
北村 守通

 暖かい、を通り過ぎてもはや『暑い』に近づきつつある今日この頃、家の中で昼間を過ごすにはもはや限界が近づきつつあり、昼の仕事を探しに行きつつも何故か帰りにはいつもの沼に釣竿を担いで通ってしまう今日この頃。え?釣竿なんて長いものを担いで仕事探しだなんてドーヨ?ですって?ボクの釣竿たちはパックロッドという、持ち運びの際には鞄の中に納まるものを選んでおりますので、外見上は釣竿を持っていることがわからないようになっている筈なんであります。
 こんな昼間に釣りなんて、ボクだけでしょ?ポイントは貸切でしょ?爆釣でしょ?だなんて甘いことを考えていたら決してんなこたぁなくって、やっぱり誰かが釣っている!あんた一体こんな時間から釣りをして、仕事はどしたの?と思いつつ、しかし自分のことは棚にあげられない自堕落な生活。早く、こんな生活には終止符を打ちたい(泣)。

 しかし、まぁ、最近の釣り場というものは変わりましたよ。
 まずね、様々な雑誌の影響でマナーの啓発みたいなものをそれぞれの釣りのエキスパートといいますか、後光の差しておりますカリスマさんみたいな方が書き続けるわけです。で、そうしますと、なんだかそんなマナーをきちんと守ることがカッコいいことみたいに思えて実践する人が少なからず生まれてくるわけなんですね。(真似しない人もそりゃぁおります。で、その人数比については統計をとったわけじゃぁないのでわかりませんけど。)どんなマナーですかって??ゴミは捨てない?釣り場で出会った人に挨拶を積極的に心がけて、先行者がいる場所でどうしても釣りたいときには「ここ入ってもいいですか?」と声をかける、といった本当にショーもないたわいもないことです。
 でも、こうしたことが実践されると、釣り場がとっても気持ちよく明るいんですねぇ、実際。自分が釣れていなくって腐った気分に落ち込んでいても『いやぁ、ボクも今日はさっぱりです。お互い頑張りましょうねぇ』だなんて会話が交わせると、不思議と気持ちが安らいだりするんですよね。
 こういうマナーは実は古くから釣りをしている年配の方々の方があまりよくなかったりするところもあって煙草は平気で海にペッとしちゃうわ、黙って人の側に入ってきて糸が絡まったりといったトラブルが起こると人のせいにするわ…
 
 いけませんね、愚痴は。ここら辺で止めときましょう。

 さてさて、釣り人同士の糸が絡まる、という事故は釣り人の多い釣り場ならばそれだけ発生する危険性が高くなりますね。これは初心者とかでなくても起こしてしまうものです。下手すると『ぬぁにやっとんじゃぁ!このヤラウ!』となりましてそりゃぁ酷い剣幕になったりする方も実際おります。そうなったら萎縮して平謝りして、その日はずっと肩身の狭い釣りをするしかないか、あるいは…(どういう結果が生まれるかは、まぁ、皆さんの想像力におまかせしましょう…)。いずれにしても折角の楽しいはずの一日が台無しです。
 でも、そこで『ごめんなさい、引っかかっちゃいましたね。今こっちで外しますから』なんて対応してもらったらどうでしょう?この場合、たぶん出てくる言葉は二つ。『ありがとうございました』『いや、どうもすみません』その時はちょっと照れて赤面することもあるかも知れませんけど、どっちが気持ちいいでしょう?

 確かに、むやみやたらと謝る、ということだけが正しいことだとは限りません。でも、自分も間違っているかもしれないし、その可能性は忘れてはいけないことだと思うんですね。そして事の発端がなんであれ、まず自分が勇気を出して謝ってみる、という行為がなんらかの解決のきっかけになったりすることも少なくありません。謝る、っていう行為は実は本当に勇気のいる行為だと思うんですよ。そしてその勇気に相手は立ち止まって己を見つめ直すのかもしれません。(悲しいかな、その勇気が通じないときもあります、確かに)
 ネットという世界は匿名性があって、自由に書き込みができます。もしかしたら、自分自身に溜まっている鬱憤だとかなんだかがあって、それを吐き出すことで開放感を味わい、自分の中でバランスをとっていることもあるのかもしれません。(正直、こんなことを書いている自分も多分そうなのでしょう)でもその放り出した自分自身がどんな人の頭の上をかすめて飛んでいるか、ということがわからないわけです。ですから様々な意見や嗜好、思考が交錯する可能性が自然と高くなります。そんな時に相手が見えないわけですから、どうしても否定的な可能性だけがちらつきがちです。議論なんかが白熱しすぎるとどうもそんな傾向に陥りやすいところがある様な気がします。また、議論だけでなくネットを通した個人的な付き合いなどといったところでも、こうした交錯が発生しやすいようにも感じています。
 
 だってこのくらいいいじゃないか
 だってこの意見はおかしいじゃないか
 自分の行動は当然じゃないか
 自分の意見は間違っていないじゃないか
 悪いものは排斥されるべきじゃないか
 
 あなたの立ち位置からの視点ではそう見えるのかもしれません。でも、別の立ち位置からの視点に立ってみると全く別のものにうつるかもしれません。その立ち位置の可能性のすべてについて検討することは極めて難しいです。でも、見えないからない、のではなく、むしろ見えないからこそ重要視するべき存在なのかもしれない、と言えるところもあるのかもしれません。そして、それを認める、ということはやはり難しいことかもしれませんが。

 その存在について確かめるために、あなたの方から『ごめんなさい』と言ってみませんか?
 


散文(批評随筆小説等) ごめんなさい、という言葉 Copyright 北村 守通 2009-04-14 04:01:10
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