戦後、日本の詩人が言葉にささげた努力のほとんどを、私たちは読むことができません。
図書館に行ってもあの高い本棚にふるえてしまい読むことができません。
インターネットですら例外ではありません。
以前「おすすめの現代詩を教えてください」という、現代詩文庫の1から100ぐらいまでに入っている詩人の名前をGoogleで検索するという詩を投稿をしたことがあります。
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=2620
2009年4月の時点で重要なことは、このほとんどの名前の検索結果が、詩人の仕事につながらないことです。
いくら詩人を調べても、その詩人の詩を読むことができないのです。
詩が読めるか、ではなく、詩がAmazonで買えるかどうか、流通するかどうかだけを私たちは知ることができます。
そして詩人の言葉を知らないまま、私たちはパソコンを閉じます。
ご自身の詩にしか興味の無い方にはそれでいいのです。
詩を調べる必要は無いのですから。
一つ他の人の詩を知ることができると
自分の仲間を一人見つけることができるかもしれません
一つ他の人が書いた自分と同じような詩を知ることができると
他の人にはあらわせない自分を一人、見つけられるかもしれません
例えば、現代詩フォーラムの中にあるいくつかの詩だけをみて、人を傷つけるようなものを評論として語る人がいます。
私たちは、このような人を無視できる力を持てると一つ強くなれるとおもうのです。
つまり、ある言葉が歴史の中で生きている言葉であることを見つけることができるから。
例えば、詩人という人種が息絶えたと思っている方がいます。
私たちは、私たちが昔から今まで生きている行為をしているのだと確信できると一つ強くなれると思うのです。
つまり、私たちのやっていることが歴史の中で生きていることであることを見つけることができます。
どうかお願いだから詩を詩集の外から出してください。
もしもあなたがブログをお持ちなら、詩集をよかったというときに、
できたら一つその詩を引用してあげてください。
そしてできたら、同じエントリーにAmazonへのリンクを置いてください。
もしも許されるなら、いい詩を教えてくれるときは
一遍全部読ませてください。
詩は、一輪の花のように、ひとつの詩の形で生きているものだから。