無関心について
パンの愛人

 私は時事的な問題にたいして、いっこうに関心をもつことのできないタイプの人間である。より正確に言えば、けっして関心を持たないわけではないが、それが直接的な行動にあらわれにくいといったタイプの人間である。それがいいことだとは思わないが、しかしそれが悪いことだとも思わない。
 ところが、世間には少数ながら、私のような人間にたいしていきどおりを見せるひともいる。そういった無関心が社会悪を放置ないしは助長させる結果になっている、というのが、おそらくそういったひとたちの主張であるのだろう。しかし、いくらそう力説されたところで、私はただ肩をすくめるだけである。

 たしかに世の中には問題が山積している。私だってそれを認めないわけではないが、だからといってそれらのすべてにかかわっていられるほど、私も暇ではない。それに、なにも性急なアクションを示さなくとも、それがそのまま社会悪の放置につながるわけではないと思う。

 もし本当の正義というものがあるのなら、それはおそらくあらゆる悪を見逃すことができないものであるだろう。しかし、程度の差はあれ、悪は人間の所与条件のはずである。したがって、ひとつの悪を見つけたならば、かれの思考はそこから無限の連鎖をひきおこさずにはいられないことになる。すくなくとも社会とはそのように個々人の無限の連鎖で成り立っているものだからである。となれば、そこでかれの思考は停止してしまう。かれの人格は、と言いかえてもいい。無限は時間のゼロ地点である。

 もちろん、こう言ったからといって、私は時事問題にとりくむひとたちの真摯さを疑うものではない。かれがそれにとりくむには、なにかしらの内的な必然性があったはずだからである。私が不審に思うのは、そういった個別的な活動にたいしてではなく、要するにそういった問題の個別性を捨象した「時事に関心を持て」という良識的な大義名分にたいしてなのである。

 私は私自身がリアルに感じる問題にしか手をつけない。それは、おそらくだれでもそうであると思う。ひとによってはパレスチナ問題がリアルかもしれない。しかし、私にはそれがリアルでない。また別のひとにとっては、恋人の浮気問題がリアルであるかもしれない。しかし、それもまた私にはどうでもいいことである。
 この場合、問題の規模が大きくなればなるほど、発言はいよいよ白々しさをましてゆくものである。また、発言者の位置が不明になればなるほど、発言そのものが空疎になってゆく。つまり、思索という行為においては、私という存在と、そして私と対象の関係を検討することがつねに同時に生起する。そうでなければ、どのような思索もけっきょくただのデマゴーグにすぎない。

 社会的な時事問題、つまり、政治、経済、芸能、スポーツと、それらの問題意識を一番に煽動するのは、なんといってもジャーナリズムの力である。そうであれば、「時事に関心を持て」派のひとも、あんがいジャーナリズムの餌食となっている場合もないとはいえないのである。こういった問題意識が容易にひとのこころをとらえるとしたら、それは、その報道が、感情に訴えるものであるか、緊急性をおびたものであるかのいずれかであろう。このふたつはともに捏造された想像上のものでもかまわない。このような問題意識は、問題が解決されて解消されるわけではない。ブームが去れば、当の問題が未解決であろうとなしくずし的に解消されてしまう態のものである。

 理想を言えば、あらゆる時事問題は正確な事実が公表されれば、それだけでおのずと解決されてゆくものであると私は思う。これは理想論だから、あくまで理想にすぎないし、ひとによってはその理想が甘いものであると感じるかもしれない。

 いずれにしろ、私は事実に固執する。抽象的な概念思考を敵視するわけではないが、それはつねに事実からの批判にさらされてこそ、はじめて意義のあるものだと考える。
 となれば、当然のことながら、私は嘘を拒絶する。しかし、こういう私の考えもまた甘いとひとは言うかもしれない。嘘と真実を見極める公正な視点などというものが、そもそも幻想の産物ではないのか、と。ひとは見えるものしか見ないし、のみならず、見たいものしか見ないものである。だが、私のいう事実とは、もっと非情で冷厳な性質のものである。それはどのようなエチカも及ぶことができない。

 事実をかえりみないということは、世界を偽るということであり、それは同時に自己を偽ることである。それはやがて自己否定、自己欺瞞へと直結する。自己否定者は圧制を求め、圧制者は自己否定を求める。私が事実に固執するというのは、こういったこともおおいに関係している。

 詩にかぎらず文学は嘘の産物であるという考え方もあるが、この場合の嘘というのは、つねに確保された最低限のコミュニケーションの通路があり、そこには自己と他者への全面的な信頼という不抜の信念が、陰に陽に内在している。
 むろん、嘘は文学者の特権ではないし、文学者が嘘のスペシャリストであるわけでもない。かえって、過去の文学者の政治的発言を、その後の時代の推移と見比べてみると、かれらのナイーブさに驚かされることがある。コミュニケーションのツールとして見た場合、文学は本来的にナイーブなものであると思う。

 世の中は理性で動いているわけはないし、ましてや感情で動いているわけでもない。その動向はあまりに複雑すぎるともいえるし、あまりに単純すぎるともいえる。
 もしも、外部とは反映された内部にすぎないとするならば、なすべきことはおのずと明瞭のはずであると思う。


散文(批評随筆小説等) 無関心について Copyright パンの愛人 2009-03-29 02:40:34
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