フランス文学の紹介者として有名な
安藤元雄さんの詩を読んでひたすら思うのは、その語り口のうまさです。
『続・安藤元雄詩集』は安藤さんの1986年から2008年までに書かれた詩よりの選集です。
この中では、ひとつひとつの詩の語りのうまさに酔いしれながら、生死をめぐる一貫したテーマを読むことができます。
例えば『カドミウム・グリーン』のような作品。
絵の具でしか使われない人工的な色をめぐって読む人は旅に出たような心地になります。
<strong>カドミウム・グリーン</strong>
ここに一刷毛の緑を置く カドミウム・グリーン
ありふれた草むらの色であってはならぬ
ホザンナ
ホザンナ
と わめきながら行進する仮面たちの奔流をよけて
おれが危うく身をひそめる衝立だ
さもなければ
木っ葉のようにそこに打ち上げられるためのプラットフォームだ
いや 彼らの中に立ちまじる骸骨の やぶる帽子のリボンの色が
ともかくもここに緑を置く カドミウム・グリーン
これでいい これでこの絵も救われる
おれもようやく仮面をかぶることができる
白く塗りたくった壁に
真っ赤な裂け目を空けて笑うこともできる
秋も終るか 街路にいると秋はわからない
どうしても上へ上がろうとしない日ざしでそれと知るだけだ
こおろぎももう鳴かない
かつてあの広場で 憂鬱な歩哨のように
おれの通過を許してくれたこおろぎだが
広場の先はつめくさのともるバリケードだった
仮面をつけていなければ入れてもらえなかった
その中で おれたちはみなごろしになるのをじっと待っていたが
装甲車は街角からひょいと顔を覗かせ
暫く睨んでから黙って引き返して行った
あの装甲車も緑色だったな
カドミウム・グリーンではなかった筈だが
おれの記憶の中ではやっぱりあいつもカドミウム・グリーンだ
カドミウム・グリーン 死と復活の色
舗道にぼんやり突っ立っているおれの前へ
戸口から若い女が一人 ひょいと出てくる
若い いや幼いというべきか 乾いた素早いまなざしで
ちらりとおれを見やってから
右の方へ もうとっくに心を決めてしまった足を向けて
一ブロック先にきらめいているデパートのほうへとそれて行く
だがあのデパートの後ろは煤ぼけた運河で
岸辺には赤煉瓦の屎尿器科の病院がある
夏にはその塀ごしにひまわりが咲き
その先には何もない石畳がある
彼女のコートもカドミウム・グリーンだ
運河の黒い水には良く似合うだろう
一刷毛の緑 カドミウム・グリーン
ありふれた草むらの色であってはならぬ
軍楽隊が行き 踊り子の群れが過ぎ
敷石を踏み鳴らし次々と山車がやって来る
赤と黄と白とが舞う
ホザンナ
ホザンナ
火の粉が舞う
誰がこの街へ死にに来るのか
道に敷くべき木の枝もなし
シルクハットの男達を掻きわけるすべもない
実はね この山車だってみんな装甲車さ
おれの絵は いつになったら仕上がることやら
仕上がっても見る人のありやなしや
それまで行進が途切れずに続くかどうか
ホザンナ
ホザンナ
カドミウム・グリーン
おれの仮面はまもなく落ちる
<i>註:ホザンナ
ヘブライ語の喜びと勝利の叫び声です。
意味は「どうか私たちを救ってください」(ヘブライ語 ho si a na 「どうぞ救ってください」)
この言葉は詩編118からとられています。
キリストがエルサレムに入城したときに群衆が「ダビデの子にホサナ」と叫んで迎えたことから、『枝の主日』の行列ではこの言葉を唱えます。</i>
この詩はゆっくりと語りながらも、
カドミウム・グリーンという色を「置く」だけで、
「装甲車」やただ街にいる女性の「コート」にカドミウム・グリーンを見つけながら、
「軍楽隊が行き 踊り子の群れが過ぎ/敷石を踏み鳴らし次々と山車がやって来る/赤と黄と白とが舞う/ホザンナ/ホザンナ火の粉が舞う」
というお祭りさわぎを引き起こします。
ホザンナ
ホザンナ
と わめきながら行進する仮面たちの奔流をよけて
おれが危うく身をひそめる衝立だ
さもなければ
木っ葉のようにそこに打ち上げられるためのプラットフォームだ
いや 彼らの中に立ちまじる骸骨の やぶる帽子のリボンの色が
ともかくもここに緑を置く カドミウム・グリーン
のような描写でふくらんでいる色のイメージと、「骸骨」のような死を思わせる言葉が組み合わさって、動きのある詩になっています。
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安藤さんの詩では、「生き物が生きて、そして死ぬということ、そしてそれがくりかえされること」自体が大きなテーマとなって繰り返されています。
例えば、『カドミウム・グリーン』の中でも「彼女のコートもカドミウム・グリーンだ
/運河の黒い水には良く似合うだろう」のように言葉の中にかくれていたり、「誰がこの街へ死にに来るのか」と直接的に書かれたりしています。
例えば、『野鼠』。
草むらで出くわしたネズミを覚えていることについて、えんえんと考える詩の中で、語り手は過去、ネズミほどに小さかった頃へ帰ります。
でもとにかく私たちは一瞬見つめあい
それから目をそらし合った
草むらが揺れもしなかったのに
彼の姿はもうなかった
私の覚えているのはそれだけだが
また出逢ったとして彼とわかるだろうか
彼のほうでも私の見分けがつくだろうか
もっともあいつにはおれの及びもつかない嗅覚というものがあるからな
それであるいは思い出してくれるかもしれないさ
見当をつけたり なつかしんだり
足音も聞かないうちから嫌って道をよけたり
それもまあ おぼえているうちには入るだろう
そして何かこう 声には出さないまでも
奇妙な感情が頭の中にひとふしの
旋律のように浮かんで流れることだってあるかも知れない
たとえばおれが
七草なずな
唐土の鳥が
日本の国に
渡らぬ先に
七草たたく
すととん とんよ
という唄を時折わけもなく思い浮かべるように
これは昔祖母が歌って聞かせてくれた唄
私には何のことやら分からない唄だったが
考えてみればおれも幼かったわけだな
幼くて 無防備で ちいさかったことといったら
ちょうどあの野鼠と同じくらいか
それよりいくらも大きくはなかったろう
祖母もまた無防備で小さかった
いつも自分の部屋の暗がりの中にいた
だからあの歌を俺は覚えたのさ
野の中で出逢った一匹の鼠をおぼえたように
『野鼠』より
「幼くて 無防備で ちいさかったことといったら/ちょうどあの野鼠と同じくらいか/それよりいくらも大きくはなかったろう/祖母もまた無防備で小さかった/いつも自分の部屋の暗がりの中にいた/だからあの歌を俺は覚えたのさ/野の中で出逢った一匹の鼠をおぼえたように」
という最後のほうで、ネズミと語り手の生きていることがつながります。
また、この詩集の後半に収録されている、萩原朔太郎賞受賞のときの講演での「詩人は空洞である」というくだりは非常に読みごたえがあり、書き手としての自分を考える上ではずせない言葉だと考えさせられます。
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<安藤元雄さんの詩を取り上げているページ>
>> 高遠弘美の休み時間・再開(告知板)
http://romitak.exblog.jp/7579715/
>>「諦念」からの再起――安藤元雄の詩集を読む (著者は森川雅美さん)
http://po-m.com/inout/id120.htm