詩が、思いから生まれること、その思いがことばとしてあるところに、詩というものがあることをもう一度考えたい。
思いとは、広い意味での、人の内面と捉えておきたい。偶然、手にちからがこもった、というような、意識とも無意識ともいえないようなものさえも、そこに入れておきたい。もちろん、気持ちや感情、心の傾きといったものも、思いとして。
それらのなかで、じぶんはどこを見ているだろう。
いま見ておきたい、いちばんのところあたりは、気持ちや感情(それってどう違うんだろう?)、心の傾きといったもの。それに対応する詩は、つまり抒情詩というもの。
ただ、あの俳句、
鶏頭の十四五本もありぬべし
ひっかかっていて、やまない。
ことばによって、写生をする。そこに思いがはいりこむ。それはどういうことだろう。
自由詩において、写生に思いがはいりこむ、ということと、詩を深めるということとは、どこまで添い歩めるものだろう。どこまでも行けるものだろうか、主観へ踏み込むことばを深まるためには必要とするのだろうか。
主観へ踏み込む、とは、どういうことだろう。
それはまた、写生に思いがはいりこむとはどういうことか、という問いと同じではないだろうか。
定型の有無が、そこを分けるだろうか。俳句は定型詩で、自由詩は不定型詩で、その定型・不定型の違いによって、写生によることばの妙味が変わってくるだろうか。
変わってくるとすれば、それは、暗示性のつよさの差だろうか。
字数のかぎられた俳句で、何が書かれ、何が書かれなかったかが意識される。もちろん自由詩であれ、何であれ、あらゆることばは、同じものを意識されるだろうけれど、十七音という限られた世界では、削ぎおとした言葉の何が残され、その残されたことばから、どこまで包含されようとしているか、が重きを占めることにはならないか。なるだろうと思う。けれどそれは、写生の働きを見ようとするところと、ずいぶん離れた話になってしまうだろうか。
自由詩において、写生とはどうありえるだろう。字数の制約がなくなるとき、写生の効果は一見して薄まるのでは、限られた字数で表わされることばの緊張感を持たないだろうと思いつつ、それでもおそらく、本来の味わいは薄まらないことだろう。
日本語しか知らないけれども、ことばの長短にかかわらず、あるふしぎな音と意味の関係をつくりだす言語だと感じていて、この日本語ということばを用いていると、やはり、字数の限りのあるなしにかかわらず、あることばに効果が生まれるような、そうした手法があるのなら、いずれにせよある、といったことに思える。
ややこしくなってきたけれど、つづめて言うと、俳句の写生の味わいのような、そんな自由詩っていいな、ということ。
たまたま今日、石垣りんさんの詩を読んでいて、その、すっくと立った詩行や、お名前どおりに、りんとした詩こころを感じながら、ではおれは何を書こうと、そうした照らされかたを、りんさんの詩から受け、考えていた。
おれのは、詩とも、よべないほどのものでは、というのは、このあたりにもあって、ただできごとをそのまま綴ったと、それが定型の枠をはずれたとき、詩ともなんともかんとも、ただのことばのそのまんまではと。
詩というよりも、ただのことばのそのまんまを、いまおれは書いている、とそういうことかもしれない。