春だ花見だエロ祭
プル式
春ですね。暖かい季節です。暖かいとこれでもかと、たがの外れた人たちが出てきますね。
春になり、陽気な陽気に誘われて、変態どもの、酒の後。
花見もそんな人たちの集まる場になりつつありますが、出来れば、一息ついて、動き出す一年の始まりを楽しんで貰いたいものです。なぜってどんちゃん騒ぎは苦手だから、隣が騒いでいると落ち着いて酒が飲めないから。まだ咲いてませんけどね、うちの辺りじゃ。
閑話休題
町には今まで寒かった冬の鬱憤を晴らす様に、酒に飲まれたり、浮かれたり、新入生や新入社員たちが無事に次のステージに進めた事の安心感と高揚感ではっちゃける。そんな季節になりつつあります。春に浮かれて恋に落ち、気がつけばあれよあれよと言う間に、みたいな。そんな経験、無いですか?僕は大いに身に覚えがありますし、去年の桜の時期に、とても大切な出逢いをした一人です。多分、春と言うのは、そういった空気をはらむ物だと思います。いや、勝手に。
さて、先日、書いた散文の感想を見ていて、何故「命がけ」なんだ、とか、書く事に対して何故ハードルがあるのか、とか、表現は、とか、まぁ、僕には判らない事がてんこもりだったので、色々考えながら、せっかくだから、考えた事を散文にしておこう、という事で書く事にした訳です。回りくどい事この上ない形容。
だから、自身のエロについて、こういうのが私のエロだ、これがエロ詩だ、というものがあればぜひ聞きたい。ちなみに、この場合のエロ詩がさすものとして、一般的にエロと見て取れる語句を含んだ詩、もしくは、作者がエロである(官能的に作った)という認識に基づいた詩をさします。だから『ミロのヴィーナス』は裸婦というジャンルでエロに区分けされますし、sexや性的表現をはらむもので美化されている物『源氏物語』なども勿論、エロです。
といった訳で、もし読んだ人がエロについて、コメントなり、散文なりをあげてくれるととっても感謝です。
本題
エロとは何か。いきなり入っちゃいます。
(中間4行削除)
まず、人がどういった物をエロと感じるのか、という事です。僕のいる環境で思う、エロを感じるもの、の一つのポイントとして「自身が慣れていない真新しい感覚」というものがあげられると思います。男性諸氏には経験があるかもしれません、エロビデオを見たときに、同じビデオを選んでしまった「げんなり感」、新しい雑誌を買いにいくお金が無くて古い雑誌を開いた時の落ち具合。
つまりエロというのは、目の前にエロがあるだけじゃダメで、エロを感じる土壌が必要なのです。
ちなみに、私、絵も描いておりまして、まぁ、一応、賞などももらったり出来る程にはなったのですが、裸婦を描く、という事があります。何故描くかというと、人体そのものの骨格や筋肉などの人間自身の美しさ、異性という自分に無いものを持っている者の美しさ、を、描く、とまぁ、大仰にいうとなってしまう訳ですが、若い頃の僕なんかはもう絵どころじゃなかったんですよ。でも描かなきゃと思うし、よけいに悶々としてしまう。美術の偉い人たちは、あれはエロではない、とか言っている意味が全く判らなかった。若い頃って、何にでも悶々とするけど、どこにはけていく訳でもなくて抑制を自身でしなければならない。抑制、つまり我慢って言うのはこう、河を塞き止めている様なもので、少しでも穴があくと、そこからドバーっとでてしまう。凄い勢いで。大人になっても、ストレスや不満などを溜め込んだ勢いを、エロに替えて発散してしまう人が、結構いる。だから、僕らの商売も成り立っているのだけれど。
2つ目に思う、エロについて必要な土壌、我慢。毎日エロばっかりだと、エロく無い。
ここまで書いて、一日置きました。
さて。では何故エロを描くのでしょうか。そもそも、書いている内容はエロでも、詩として読んだときにエロを感じないもの、という意見が多数出て来る様な気がします。「エロではないジェンダーとしてのSEX」や「生きると言う事、命と言う事の性交渉」そのほかきっと、僕の思いつかない理由たち。でも、待ってください。そもそも、性行為というものを生物が行うにあたって、エロは不可欠ではないでしょうか。男性にとって『エロのない自然な』性交渉は不可能では無いでしょうか?勿論、血流の操作やなにやで行為は可能です。それも一つの性交渉ではありますが『男性にエロが無く行われる』場合、『女性側のエロ』が必要になるのでは無いでしょうか。つまり、互いにどちらのエロも発生しない場合、そういう行為自体が成り立たないのではないか、と僕は思うのです。
では『生きるという』『ジェンダーとして』のエロは何なのでしょうか。ただの『象徴』としてのモチーフにすぎないのでしょうか。それならば別に性器や自慰行為やSEXなどを持ち出さなくても可能ではないでしょうか。と勝手に課程すると、それ以外の意味があるはずです。以前なにがしかで記憶した事の中で『異性に興味を持つのは子孫繁栄というシステムがあるからである』というのと『異性に興味を持つのは自分に無いものを欲しがる人間の性である』という言葉がありました。うろ覚えで申し訳無いのですが、この言葉を信じるなら(あるいは一つの解釈と取るなら)エロを書くと言う事は、自分に物へのないあこがれや、自分とのつながりなどを書くと言う事でしょうか。もしそうだとするなら、明るいか、暗いか、向いている方向は様々でも、それは夢や希望や憧れという物ではないでしょうか。
ここにきて、あぁ、でもそういうエロを描く人たちって『ポエム』というものを蔑視している事が多いよね、という事を思いました。ちなみに僕の書く詩は『ポエム』でありたいと思っていますが。何故、一部の彼女たちは、あるいは彼たちはポエムを嫌うのでしょうか。判りやすいからでしょうか、それとも、メルヘンにお花畑でルンルンな事ばかりだと思っているのでしょうか、はたまた、誰でも入りやすい入り口と見るからでしょうか。ポエムを区分するなら入り口の一つである事は確かかも知れませんし、入り口はなんだって混雑や停滞をするが故に、一種の流行の様になってしまう場合は確かにあります。書き始めたばかりで稚拙さが露になる事もあるでしょう。それが嫌なのでしょうか。僕の知っている女性詩人の中で、エロを読む事がある人の中で、僕がきちんと話せる人が4人います。僕はあまり多くの作品を読む人間ではありません。週に50も読まないでしょう。それでも、そういった詩を描く人というのはネット上でランダム表示すると出逢うことがあります。『わざわざ性的表現を使った詩』です。それは僕から見ればポエムと同じ様に、一つの垣根を超えた場所にある、入り口の、混雑の、停滞の、流行に見えるのです。初めてポエムを書いた人が、ポエムという抵抗の垣根を越えた様に、自分の恥部や性的な、あるいは過激な表現を使い、入り口に停滞している詩人たちから、さらにもう一歩、もう一歩と垣根を越えた場所では無いでしょうか。それが悪い事だとは思いませんし、僕はそういった入り口に留まろうとしがみついています。しかし、そこは先に行った様に、入り口にある、一つの流行としてのエロな気がします。自己表現というより、性と言うものを書いた自分に賞賛を送る流行。自己啓発。もちろんその先に進んでいる詩人の方も多くいますし、僕が話せる人たちが、そうであってほしい、というか、そうだと思っていますが。話がそれましたが、流行としてのエロという物の存在がある、という事だけ、少し触れておきたかったのです。
最後になりますが、女性が「死にものぐるい」で書く詩って言うのは何なのか、何故そこにエロが必要なのか、そこで何を求めているのか、を僕は知りたいと思っています。ですが、教えてくれと言っても教えてくれる物ではない気がしますし、口でいって伝わる程度のものが死にものぐるいだとも思えません。だから、色々な人の、色々な、エロのある詩を読みたいと思います。作品を教えてもらえると嬉しいです。
あ、まとまってないって思います?