死人(しびと・Emによるテンポ・ルバート)
ホロウ・シカエルボク
どんなふうに始末をつければいいのか判らないからただそこに投げ出してあるだけだ、よしとしなくても構わないから関わらずに放っておいてくれ、生きるために投げ出しているものに調和を図るのは俺の役目じゃない、設計技師を呼んでくれ、俺が失神の様に夜に堕ちている間にでも
古い造りの窓の、ガラスの縁のあたりで昨日の幻覚が死にかけていた、白目を向いて―口から泡を吐き出していた、何かを間違えてしまった罰みたいに見えた、救急車のサイレンが今日も誰かを搬送して―その中の誰が生き残ったのかなんて俺には知る由もない、ただ、そこには誰かがきっと寄り添っているんだろうなと
週末の間にいつも眠り方を忘れてしまって今夜はたぶん痺れたみたいに目覚めたままでいるんだ、意識をねじ伏せようとするみたいに目を閉じて―それが知らない間に終わるのをきっと待っているんだろう、必ず訪れるものが望み通りに訪れることなんてまずない、俺はバランスを崩して―断続的な要領を得ない意識のカレイドスコープの中で濁った夢を飲む…夢の中のゴーレムはいつでも俺を叩き潰そうとしていて―強い意志を語る握りしめられた拳に俺は脅威を感じて―脅威を感じて誰も居ない夜の街路を疾走する、セーヌのほとりを走るドニ・ラヴァンみたいに
「恋はみずいろ」をハミングしながら大男は俺のことを探している、ビルの陰に隠れてしまえばやつには絶対に見つけることは出来ない、そのことは何度も見た夢だから俺はとうに知っているのだ…ビルごと叩き潰されたりすることがない限りそれは大丈夫、やつは絶対にそれを叩き壊したりなどしない、だってそれはやつを構成している一部であるのだから
その街には誰も住んでいる感じがしない、いや―存在の気配がない、落し物の様にその街はそこにある、唯一の存在である俺はゴーレムの視線を避けながら街の中心を目指す、なあ、小便がしたい、小便がしたいんだけど化粧室はどこだい―俺はいくつかの裏口をノックしてみる、ゴーレムに気取られないように静かに…返事もなければ鍵も開かない、まあ、そのことはおおよそ判っていた、それはどうしてなんて聞くのも馬鹿馬鹿しいくらいに
俺はある路地のどん詰まりで小便を済ませる、ほこりひとつついていないマンホールのふたにそいつは流れ込んでいく、どこに行くのか―存在についてなにひとつ蓄積のないこの世界で―俺は四つん這いになり犬の様に小便に鼻を近づける、もしかしたら小便の臭いなどしないのではないかという興味に駆られて…やはりそれには臭いが無い、ミネラル・ウォーターよりも曖昧な感覚しかそこには残されていない…なめてみる、舌を長く出して―味がしない、小便の味などしない、アスファルトの味も、どこかからほこりのように積もるはずの土の味すらしない…ここは忌まわしいところなのだ、と俺は悟る、それは理屈じゃない、ある種の逸脱はプロセスを通過することなく理解出来るものだ
俺はそこで一度目を覚ます、よくいう悪夢の感覚などそこにはない、ただひとつ、忌まわしさの感触だけがふつふつと肌に張り付いている…俺は便所に行く、ほんものの便所でほんものの小便をする…もちろん臭いなど確かめたりしない、それは間違いなく本物の小便で、俺の性器から放物線を描いている…洗面で俺は自分の顔を見る、何か余計なものが付け加えられているんじゃないかと思って―何もない、不用意に寝惚けたいつもの顔があるだけだ―俺は再び時折針を刺されるような眠りの中に堕ちる、ゴーレムはずっと恋はみずいろをハミングしている、きっとあれはやつが動くのにちょうどいいテンポなのだろう、ああして地面を踏み損ねて転んだりしないようにリズムを整えているのだ―それともあれは俺を呼ぶためのメロディなのかもしれない、飼主が犬を呼ぶ時の口笛のような―そうするとやつは俺のなにがしかに「恋はみずいろ」を感じているのだということになる…俺の成り立ちのどこかに、それを
中心部には様々な店が並んでいる、レストラン、ブティック、屋台、書店、デパート、菓子店…そしてそのどれもが沈黙している―完全な沈黙、完全な沈黙はもはや沈黙ではない、それは内奥にある様々なものの微細な反響を聴きとろうとしてざわめいているみたいに感じる、俺はオープン・カフェの傘のひとつに身を隠す…百年も前に飲み残されたようなアイス・コーヒーが置いてある、やはり、味など少しもなかった、俺はため息をついて椅子に身体をあずけた…ゴーレムの背中が見え、やがて遠ざかっていく…俺は店の隅にギターが投げ出されてあるのを見つける、ギターを持ち、うろ覚えの、昔作った曲を弾く
『その音楽が有機的でなければ俺はおそらくそこから抜け出すことは出来ないのだ、夢の中の俺のギターの腕前は現実とそんなに大きな違いはない―ロー・コードだけのその曲を何度も弾き損ねる、俺とあまり変わらない大きさのゴーレムの一団がカフェの席のあちこちに座り、俺がそれを完奏するのを待っている、俺は指先を破りながら懸命に弾く―こんな光景をどこかで見たことがあると思いながら―…』
ゴーレムはよく判らない感じで身体を揺らし、ばらばらに立ちあがる、そしてこの忌まわしき世界に朝が訪れ、ゴーレムどもは砂に帰っていく…俺はギターを置いて立ち上がり、空白の客席に礼をする…
ああ、朝が来るのだ、畜生。