絶望についての対話(2)
Giton

 (承前)
A:Ηは人非人でした。しかし、私がそのことを理解したのは、彼が私の目の前にはもう現れないこととなった時なのでした。
 私はその時以来、人を信ずることができなくなりました。私の前に愛する人が現れても、私はその人を信ずることができないために、相手は遅かれ早かれ去って行くのでした。相手が去り、私にとって、その相手が存在しなくなった時にはじめて、私は相手が私にとって何であったのかを知るのです。
 このような経験を重ねて、私がいま最も信じられるものは、人でも神でもなく、純粋な名の集積なのです。数学こそは、まさにそのようなものです。
 私は、毎朝日の出とともに体操場へ行って、同輩たちと汗を流し、日が上れば、体操場の庭に図形を画いて、問題を考えます。そして、午後から夜にかけて、文字を知らない商人のために手紙やら勘定書を書いてやり、こうして私の1日が終ります。
 私たちの体操場で教えているエラトステネスという人は、隊商がナイル沿いの旅にかかる日数を商人たちから聞いて、その距離を正確に計算し、これをもとに、この大地の球の一周の長さは233,333スタディアであることを計算しました。そして、サモスのアリスタルコスの述べるところに従って日食を観察し、月の大きさは大地の大きさの3分の1であり、その一周の長さは77,777スタディアであることを突き止めたのです。その日食がいつ起こるかということも、正確に予言されていました。すでに200年前、バビロニアの記録を調べたヒッパルコスは、223ヶ月ごとに月と太陽が重なると述べており、これは、まったく正確な予言だったのです。
 私には、この世界のあらゆるできごとは、数学によって支配されているように思われてなりません。
 すなわち、名の集積である数の摂理こそは、森羅万象そのものであり、私たちは、仮の名を次々に立てて、解き明かし、そうやって摂理を究めて行くことにより、森羅万象を自在に知ることができるのだと、私には思われるのです。
 あなたは眠そうですね。あなたにとっては、ぼくの話など虚妄でしかないのでしょうね。

(つづく)


散文(批評随筆小説等) 絶望についての対話(2) Copyright Giton 2009-02-28 02:37:32
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