宮尾節子さんの『ドストエフスキーの青空』は、生きることへの肯定が前に押し出されている詩集です。
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「生きる」という言葉は人間の中にある言葉だと改めて考えさせられます。
例えば、スイカや天然の鮎、大根と言ったものを語り手にあげる、親切をこえた大久保さんのことを「詩」だと語る『初日』では
表に人が立っている
表に詩が立っているのじゃない
詩はその人影だ
詩がすぐれて立つのじゃないそうか
詩は立つ人のすぐれた影なのだ
この人なしには 詩のために
南天の葉は鉛筆を削らない
そうだ大久保さん松も竹も正月も
影から生まれてはいない
詩から生まれたのではない
人から生まれたのだ詩は
『初日』より
と「詩は立つ人のすぐれた影」とはっきりと人への熱い視線が感じられます。
(もっともすぐれているのは、書き手や語り手ではなく大久保さんなのですが)
そして、この「生きる」ことへの視線がそのまま「人の生死」を語ろうとします。
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「長い間自然の森の中で生活していると/本当は『死』というものがないんだということが/よくわかってきます。」とドキュメンタリーで語るチンパンジー研究者に対して、『森の中に』という詩は人の言葉で死を探り当てようとします
死はどこへ言ったのだろうか
取り残されてあたりを見廻すと豊かな
森の中にないものが一つだけありました
それは
悲しみです
森には悲しみがなかった
わたしは再び見つけたのです
湿った杉苔の裏側で虫の死骸を見つけるように
悲しみの裏側に隠れていた死を
森にはない
森ではない、
人には悲しみが残ります
いなくなったことを悲しむ人の
心の中に
死はやはりありました
「悲しみの裏側に隠れている死」。
言ってみればなんでもないのですが、
この言葉を取り出すために
宮尾さんが画面の中の森と自分のこころの中を渡る姿が目に浮かびます。
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宮尾節子さんは、日本の女性の現代詩の記念碑『現代詩ラ・メール』新人賞の最後の受賞者です。
宮尾さんのBLOGでは彼女の新しい詩も読むことができます。
>> 晴れときどき 宮尾節子
http://miyaono.exblog.jp/
>> 宮尾節子の世界
http://pm9.biz/member/miyao_setsuko/index.html
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『ラ・メール』から発掘された詩人としては
征矢泰子さんや鈴木ユリイカさんがいらっしゃいます
よかったらこちらも参照ください
>> 厳しさがそのままきれいな言葉になった詩集 書評『現代詩文庫 175 征矢泰子詩集』
http://literturehardcore.blog51.fc2.com/blog-entry-139.html
>>世界の女性詩は『something』から!
http://literturehardcore.blog51.fc2.com/blog-entry-159.html