中学受験の会場にて  【小説】
北村 守通

 充分に温まったベンチに腰掛けると、つま先もまた冷たさと圧力から開放されたのだった。試験は始まったばかりで、校内は再び静寂に包まれていた。彼らの解放はまだ少し先のことだったので、私はタバコを吸いながらそれを待つことにした。
 その煙の色と雲の色とが違っているので、彼らは決して交わることはないだろうということを思いつつ、私は選別の対象となったことはあったが、選別をする側になかったことを思い出した。それについて考えてみることは少なくとも今のこの止まった時間から脱するには充分な様に思えた。
 試験実施者達はこれから大量の答案を正確に素早く処理するはずであった。それは最も公平な行為であるように思われた。出荷作業の際の検品よりも明確な基準の下にそれらは選り分けられてゆくのだろう。そうした作業は適度な緊張を生み、また適度な緊張は後に人に充分な達成感を与える。私は少しばかり彼らあるいは彼女らが羨ましいと思った。
 近くの三面護岸された川と呼ぶには小さすぎる水路で水面を流れる何かを捕食する音が聞こえた。それは単発のもので何によるものなのかはわからなかったが、少なくともその水路内になんらかの魚が生息しているということだけは確かめられるものであった。あまりに天気がよく、温かく、時折ほほをなぜる風が気持ちよかったので、私は自分の手元に愛用のフライロッドがないことをひどく後悔した。無性に釣りがしたかった。そして、今この場に居て、美しいエメラルドの底石達を目の当たりにできていないということが、非常に重々しく感じられた。
 これだけの陽気ならば、魚たちも消化に必要なだけの体温を得ることができているだろう。そして滑らかな水面には体長一ミリにも満たないコカゲロウやユスリカ達が滑らかな輪っかを作っている筈なのである。その天上からの輪っかに重ねるようにして、魚たちもまた水面下からの輪っかを作った。私は冷静にそれらの中から自分に合った輪っかを選び出し、輪っかに合った色とサイズとステージのフライを投げ込むのだった。流されているフライラインの先で、やはり輪っかが下品な音と共に拡がるとき、私は緊張した。そして私の手にはラインを通して歓喜が伝わってくるのであった。
 エメラルドグリーンの濃淡の変化しかなかった水中に、突如白色がうねり、太陽光を反射した。それは私に合った魚であった。私が住んでいる世界よりも遥かに過酷で孤独な世界の中で逞しく育まれてきた白色が、私の手に委ねられたことを知る一瞬は常に釣りの楽しさを忘れさせるのに充分な哀しさがあったが、彼らあるいは彼女らが再び抵抗を試みるのを確かめると一瞬の内にそれは崩壊するのが常だった。
 時として、ネットに収めた選定品に水という圧力からの解放と、少しばかり呼吸という行為の不自然さを味わってもらうだけで、もとの世界に戻すときもあったが、ある時には私の生命活動の維持のための一部として利用させてもらうこともあった。ここでも私は選別していた。もとの世界に戻された彼らあるいは彼女らが何を感じるかはわからなかった。そこから先は私とは接点の無い世界の話であった。ただ、私の体温に触れることによって火傷することがなかったかどうかは心配だった。つとめて注意はしているつもりだったが、その結果を確かめる術はなかった。彼らあるいは彼女らにとって、私は数少ない接触を強要された人間だったかもしれないが、私にとってはそうではなかった、ということもあったのかもしれない。私の脳は魚たちを留めておくプールとはなり得なかった。彼らあるいは彼女らはそこからすっと上流の白泡の落ち込みの下に泳ぎ去って隠れてしまうのだった。
 教室という暗いストラクチャーの中で、白い答案用紙を真っ黒に埋めようとしているだろう彼らの姿と魚たちの姿が何故か重なって見えた。そこに新たな感傷を見出す前にチャイムが鳴った。彼らは長い旅路から一時的に解放されようとしていた。私の一時的な解放は彼らより少し後であった。私は火種を失ったタバコを携帯灰皿に突っ込み、顔の動きを確認するともはや温かいを通り越してあつくなってしまったベンチを後にした。釣りはまだお預けだった。


散文(批評随筆小説等) 中学受験の会場にて  【小説】 Copyright 北村 守通 2009-02-22 22:21:19
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