雁
杉菜 晃
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紅葉した山の宿舎を出ると 頭上を雁が渡った。その哀しげな声は、澄みきった大気にしみ透り、何人をも、氷水を口にしたときの気分にさせる。
私はボストンバッグを足元に置き、雁の一群に目を留める。宿舎から、女子学生が七、八人広場に飛出して来る。
雁の列は美しくカギ型を変形しつつ、宿舎の屋根の向うへ隠れるところだ。
後れて駆付けた一人の女子学生が、私と見物者との間に割込んで、空を仰ぐ。
折しも、引っ掛けてきたカーデガンが落ちそうになったものか、いきなり彼女の肘が、私の鳩尾を抉った。
私は思いがけない肘鉄を見舞われて、そこに蹲るばかりに苦悶する。
余程力がはいっていたと自覚したものだろう、女子学生は、「あ」と短く叫ぶや、躊躇う間もなく私の鳩尾の上をさすり始めた。泣きそうなほど真剣な顔になって―――
「ここ? ここ?」
と、おろおろ声を発しつつ。
しまいに、そこに心臓があって、その鼓動を確かめでもするように、私の胸に耳を押し当てた。
その間どのくらいの時が流れたものか、既に雁の列は屋根の向うに隠れ、遠のいていく啼声がかすかに届いてくるばかりだった。
私の動揺は、胸の痛みから、女子学生の意外な動転ぶりのほうに移っていた。
彼女の仲間たちも、雁から私たち二人に矛先を変えていた。
女子学生は、そんな仲間たちの動きから、冷静に戻ったらしかった。ふっと面を上げて、せつなく私を捉えたのだ。
その顔が、見る見る染まっていくのを、私は否が応でも観察せざるを得なかった。あまりのことゆえ、私には観察者の自由があったのだ。
その私の冷めた表情からも、彼女は自らの慌てぶりを察したらしかった。
「ごめんなさーい!」
こう叫ぶなり、顔を両手で覆って、蹲ってしまったのだった。
私は悪びれるように一言、訳の分からぬ言い訳をして、ボストンを手にするとケーブルカーの駅に向って行った。
自分には不相応なばかり、美しい人だったなと呟きながら、鳩尾に残る鈍痛にも気づかなかった。
宿舎前の真直ぐな道を折れるところで、振返ると、あの女子学生はまだ屈み込んでおり、その周りに仲間たちが立って、肩に手を置いたりしていた。
鳩尾が本格的に疼き出したのは、ケーブルカーから電車に乗換えてからだった。
けれども私は、それを彼女からのプレゼントのように受取っていた。
鈍痛は一週間ばかりつづいて、おさまった。
★
その後、幾度となく山の宿舎を訪れたが、彼女に出会うことはなく、年月を過ごしていった。
雁の渡りに出合いもしたが、あの人の最後の叫び、
「ごめんなさーい」
に重なってきてならなかった。
「巡り会えなくて、ごめんなさーい!」
雁はそう啼いていくようだった。
しかしこれは、運命という〈彼女〉に向って、私の叫ぶ叫びではなかったのか。
年月は感情の幼さや、汚濁をきれいに洗い去って、雁の渡った空は透明な青一色に澄んでいった。
風は爽やかに巡り、彼女を呼ぶ代りに、遍く行き亙る空気のようなもの、聖なる別の対象を呼吸したがっている自分に気づいた。
何がして、彼女にそういう行為を促したかに気づき始めていた。
一点の曇りもない、無垢なる〈愛〉! 私はそのようなものを、彼女を通して教えられたようだった。