研究「緑川びの」(2)
生田 稔

研究「緑川びの」(2)


 デビュー作3作に続いて3作を考えてみたい。研究といっても、個人的なことは何も知らない。ただ詩についてのみ、語るほかはない。つまり詩評なのである。だから作者にとつては意外な深読みがあるかもしれないが、作品は作者の手を離れると独り立ちするのだから、単なる記号にすぎない文字が正確に作者を表すとは到底思えない。犯罪捜査でも供述書はたびたび不正確で、書き直し書き直ししても逆転無罪判決であったりする。詩も大部分フィクションである。歌手が、歌っている歌詞とおなじ様な人であるはずはない。作った作詞家だって同じことである。聖書のイエス・キリストは実在の人である。私には疑う余地はない。天から地に来た神の子であったという。それも私は疑わない。
でも聖書は正確に事実を写しているだろうか、神も天使もサタンも悪霊もパリサイ人とサドカイ人も確かに存在するに違いない、でも本当のことは何のだろう。もっともっと複雑かつ単純なのではないかと思う。では作品を読もう。


勝手憐
緑川 ぴの

生きるも勝手
死ぬも勝手

上司と情死
不倫の果てに
手に手を取って
思い出めぐる
片道切符
湯上り浴衣
抱き合って写した写真
を形見に
海波
砕ける断崖から
身を投げる

生きるも勝手
死ぬも勝手

目張りした
車中は
黒煙だらけで
目にしみる
出会ったばかりの
見知らぬ
人と
見知らぬ
人が
見知らぬ
場所で
お陀仏しても

生きるも勝手
死ぬも勝手

そんな勝手は
自分勝手と
したり顔した連中に
説教口調で
切り捨てられても

生きるも勝手
死ぬも勝手

 勝手憐は倫理的主題を持っている。憐とは作者の憐に違いない。そうきめつけると、もうそれ以上踏み込む余地はない。それほど一見すると単純な詩である。

したり顔した連中に
説教口調で
切り捨てられても

 ここに作者の独特な非凡さがあるように思える。あっさり片付けはできないのですよと作者はいう。でも死ぬことはその人の自由、つまり勝手なのである。そしてそのような現実が憐れであるのである。詩を批評しながら時折思う。分解し解析することは、詩の鑑賞にはつながらない。詩は読者にとっていいか悪いか、気に入るか気に入らないかのどちらかだ。だが批評者に持ちあげられれば、だぜん輝くのが作品に違いない。いい詩です、美しい詩です、などというコメントがたくさんある詩はいいかも。だが大衆は利用されやすい。でも緑川詩は、いつも一つの主張を打ちだす独特な技巧による訴える詩である。





雨模様死景色
緑川 ぴの

おいらは死にたい
死にたいよ

ネクタイで首を
吊ろうと思ったが
何故かおいらはクールビス

 死にたい
 死にたい
 死にたいよ

飛び込む電車に
サラリーマン
サラ金地獄のなれの果て
あぁJR神田駅は
今日も雨模様

 死にたい
 死にたい
 死にたいよ

薬飲むのも良いけれど
金がないない
薬が買えない
誰かおぜぜを恵んでおくれ

何処かでゴ〜ンと
鐘が鳴り
南無阿弥陀物か
法蓮草

 死に関する詩が続く,死って言うのは文学の対象として価値があるのかもしれない。若いころは私も盛んに死や不幸を対象にして詩やその他を書いた。この作品もごく初期のものである。突き放しているところがいいのではないか。これ以上のことは誰もない。クール・ビズなのでネクタイもない、ネクタイがないのでそれで首も吊れない。考えてみたら、私はこの詩に真剣に向かいすぎ、超ブラック・ヒューマーなのに。でもそう言って笑えない気もするこんな人もいるかもねとも思う、これほどでないにせよ。では次の詩に行こう。





死診
緑川 ぴの

N大学病院の暗い廊下
名前を呼ばれるまで
俺は硬いベンチにじっと座る
ある種の臭いが辺りに漂う
無意味な延命治療を施された
患者が発する死の臭いか
それとも
薬漬けになった患者が吐き出す
プラズマのような薬品臭か

「鈴木さん診察室へどうぞ」
「鈴木」って言う名は俺の名か?
廊下にもまして暗い診察室に入ると
若い看護士に促されるまま
白いシーツにくるまれた
寝台に俺は横たわる
ついに
俺は運ばれるのか冥土の果てに
それとも
医師の生暖かい手ざわりが
俺の脳みそをかき混ぜて
俺を他の「鈴木さん」として
蘇生させようと言うのか

俺が名前を呼ばれた「鈴木」で無いならば
未だ診察の順番を迎えていない訳で
忙しそうに行き交う看護士を
ぼんやりと眺めては
欠伸をひとつふたつと数え
何時の間にか手渡された
石鹸を握り締める

 私も入院の経験が幾度もある。
欠伸をひとつふたつと数え
何時の間にか手渡された
石鹸を握り締める  ここんとこがとてもリアルである。病院の雰囲気が全編に漂い、患者であることの虚しさというか無意味さでもよいが、そんなものがある。私は電気ショック療法を何度も受けたことがあるが、この詩を読みながらそれを思い出した。看護婦や看護師でなく、看護士であること、では外科か精神科か。
 こうして合計6篇の詩を評したが、なぜか緑川氏に尊敬の念さえ覚える。よく考えると、彼女の詩は社会の暗部を正義感で持ってえぐる外科医のようである。まだ未読の詩が数百もある期待と楽しさがある。





散文(批評随筆小説等) 研究「緑川びの」(2) Copyright 生田 稔 2009-02-16 14:34:47
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