殺さないものとしての同族−「存在の彼方へ」を読んでみる15
もぐもぐ

レヴィナスは、過ぎ去ってしまった時間(経過=喪失としての時間)との関係で、「責任」という概念を持ち出してきたのであった。

問題はある意味単純なものである。もし、個人の「自由」というところから発想を始めるならば、「責任」などといったものが成立するのは、その個人が同意を与え、或いは与えて然るべきと考えられる場合に限られる。同意なき義務も、同意なき責任も、「自由」を大前提に発想するかぎり、ありえないのである。(自分の意思によらずしては拘束されないというのが自由である。)

例えばホッブズも、ここから発想した。完全に自由な諸個人を放置すると、万人に対する万人の闘争が発生する。この事態は、理性的に考えるなら、全ての個人の生存にとって極めて不利な事態である。理性は、諸個人が社会契約を締結し、国家の威力によって暴力を抑圧すると同時に、それによって諸個人の生存をより実効的に確保することを要求する。社会契約は「与えて然るべき同意」であると捉えられた。「個人は自由である。但し国家の威力に服するべきことを除いては」というのがホッブズの結論である。

ホッブズ的な解決すらも、依然として理性の平和、別の形態での「闘争」の継続であるとして退けるレヴィナスは、果たして自由が拘束されることについてどのような形で説明を与えるのだろうか。

レヴィナスの答えは、「責任について合理的な説明は不可能である」というものである。

いくら無制限的な自由には弊害があるとはいえ、これは余りにも乱暴な議論ではないだろうか。レヴィナスはこのような暴論を、一体どのようにして根拠付けることが出来るのか。

それは、「合理性とは歴史、即ち記憶可能なものに依拠しており、他方で責任は時間(経過=喪失)、即ち記憶不能なものに依拠しているから」というものである。
記憶不能なものの中で締約される責任、それを記憶可能なものからなる「合理性」によっては説明することはできないというのである。


この議論を受け入れられるかどうかはかなり微妙である。
見方は二通りある。一つは「責任」などというものは、「人間の構築物(人工物)」であるから、ホッブズのように「合理的」に考えて人間が自由に決定してしまえばそれでよい、という見方である。
もう一つは、「責任」は、実は「人間の構築物」ではなく、或る意味において「自然物」、人間に最初から与えられている何ものかなのであるから、人間の自由にはならないという見方である。「自然物」は、最初からそれ自体の何らかの性質や特徴を有したものであり、その性質や特徴は人間があれこれ勝手に決めることが出来るようなものではない。人間の方がそれに身をあわせて、その何ものかの性質に合うように、しっかり観察していかなければならないのである。
前者は「機械」モデル、後者は「自然」モデルと言っても良いだろうか。ホッブズは「機械」モデルである。レヴィナスは「自然」モデルを取る。責任の先在性を認めるのである。


或いは、ホッブズの言う「自然状態」についての解釈の相違といってもいいのかもしれない。ホッブズは、自然状態においては「万人が万人に対して狼」だとした。それに対してレヴィナスは、自然状態においても「責任」なるものは存在するというのである。

どちらが妥当なのかを決定する方法は、実際のところあまりないように思える。
ただ、例えば多くの動物が最初から「群れ」で生活し、或いは自らの種族同士「共食い」を普通しないことを見れば、「万人が万人に対して狼」という状況は、実は「自然」的なものではないとは言えるかもしれない。狼すら、群れで暮らし共食いは原則的にはしないだろう。この意味では、よくよく考えれば、「責任」の先在性を主張するレヴィナスの方が、実は分があると言えるのかもしれない。


例えば、「責任」を「殺すな」という命題に置き換えてみてはどうだろうか。
「殺すな」という命題は何を意味しているのかというと、殺すことの出来る可能性を持っているにもかかわらず、それを行ってはならないということである。
自分と無関係のものは殺しようがない。「無差別殺人」というものもあるが、これも、「殺人」しようという意思、即ち物ではなくて人を殺そうとする意思が含まれている限りにおいて、「人間」を自分と「関係のある」ものとして選別している。「殺人」という言葉は、人と人との間の潜在的な「関係」性を含意している。
殺すことが出来ないのは「物」である。物は破壊したり抹消したりは出来るが、「殺す」ことは出来ない。物に対して責任を負うということはない。「物」は、人間との本来的な「無関係」性によって定義されるのである。この点典型的なのは「石」だろう。石は人の目に留まらない、それは人間とは「無関係」なのである。
或いはもう少し細かく見ると、「殺す」ことは出来ないが「死ぬ」ことが出来るものもある。それは「植物」ないし「自然」である。植物は枯死したりすることが出来るが、「殺す」ことは出来ない。或いは山や川は、「死ぬ」ことはあっても「殺す」ことは出来ない。これは、人間の側から「関係」するのでなく、向こうの方から人間に「関係」してくる、人間が「関係されている」というあり方をしていることを示している。

他方で、「責任」は「生かす」という命題に置き換えることも出来そうである。
「植物」ないし「自然」は、「生かす」ものである。「生かさ」なければ「死んで」しまう。「殺さ」なくても、放っておけば自らの手を逃れて「死んで」しまう。
「人間」も、ある意味においては「生かす」ものである。「生かさ」なければ「死んで」しまう。
「生かさ」なければ「死んで」しまうという関係は、自分がその意に反してでも無理やり「関係させられている」というあり方を示している。

レヴィナス的な「責任」は、この「生かす」のイメージに近いような気がする。(例えば、「いうなれば私は、顔が死ぬことに対して責任を負うており、自分が生き残ったことに対して罪を負うているのだ。・・・近さにおいて、私は「自分が孕みも産みもしなかった」絶対的に他なるもの、<異邦人>をすでに腕に抱いている。・・・<異邦人>は他に場所を持たない・・・<異邦人>は季節の寒さや暑さにさらされる。私に頼るほかないということ・・・隣人の無国籍性ないし異邦性が私に課せられるのだ」(p218))

「責任」(「殺すな」「生かせ」)という命令の有無は、そのものと人間との関係性のあり方を告知している。
ホッブズは、最初から「人間は人間に対して狼である」と規定するわけだが、そのように断言できる根拠はよくよく考えるとあまりない。人間は「殺すな」とか「生かせ」等、他のものと多様な関係性のあり方をするのであって、ホッブズの命題は、その多様な関係性の中の一様態として現れてくるものに過ぎないのではなかろうか。

かなり曖昧で、抽象的な例になってしまったが。


さて、上で出した例は単なる言葉上の問題(物は殺せない、とか)であるが、「殺すな」もしくは「生かせ」というのが、責任の根源的形態であるというのは、果たして自明であろうか。
この点を考えるに当たって、気になるのが、レヴィナスの言う「兄弟関係」という語である。(「他者の自由に対して責任を負うた私の責任・・・人間同士の驚くべき兄弟関係」(p39))また、「他者に対する責任とは、主体性という非場所が定位される場所であり、「どこ」という問いの特権が失われる場所である」(p40)とも言われている。責任、即ち「兄弟関係」と、「主体性」の成立は、ある意味同時的なものとして捉えられているようである。

哲学一般の問題としていえば、自己/他者の問題と言い換えることが出来るだろう。自己/他者は、一体どのようにして成立するのか、現象学をはじめ様々な哲学が問うてきた。レヴィナスは、直接にはこの成立の仕方を問題にはしない。これが「意味」するところのものを思考するのである。

そもそも、自己/他者とは何であろうか。自分と他人は、一体何が違うのだろうか。どこが共通しているのだろうか。

自己と他者は、どちらも「人」であることが前提であるという点で、共通している。つまり「同族」であり、レヴィナスの言う「兄弟関係」である。人でないものは、自己でも他者でもない(例えば石ころは、自己でも他者でもない)。自己と他者は、「人」という共通性(「同族」性)が確立される枠内で、始めて意味を持つ。

他方、自己と他者は、感受しえるかしえないかという点において、相違している。私は究極的には自分をしか、感受することはできない。痛みも喜びも、他者のそれは、「表現」されたものを通してしか「感受」することはできない。感受しうる特権的な立場にあるという点で、自己と他者は区別される。

「殺すな」「生かせ」という命令において、始めて、自他の「同族関係」、及び私が「感受しうるという特権的な地位にあること」が告知される。


これはどこか、ハイデガーの「存在の意味への問い」と似た発想であるのかも知れない。「死への先駆的覚悟」において、始めて「存在の意味」は告知される。レヴィナスはこれを少し書き換える。「責任」(「殺すな」「生かせ」という命令)において、始めて「主体性の意味」が告知されると考える。


この発想においては、「責任」はもはや由来を問われることのない、所与のもの、若しくは「自然」である。人間に事実上、付与されているか付与されていないかのいずれかであり、如何なる外的な力によっても、その所与を揺り動かすことは出来ない。「殺すな」「生かせ」という命令を聴取する者は最初から聴取するし、聴取しない者はしないのである。(育てたり失ったりすることは出来るかもしれない)

これはある意味、ホッブズ以上に「残酷」な認識である。「責任」(「殺すな」「生かせ」という命令)に拘束されていない者を、どのように無理に拘束しようとしても、それは無理なのである。ホッブズは理性によって「責任」(無制限な暴力の禁止)を「強制」できるとした。しかしレヴィナスは、それは不可能であり、ある意味単に「自然」的な「事実」の問題として取り扱うのである。

レヴィナスは、これを「善」であるという。
「現在は私の自由のうちで始まる。これに対して、<善>は自由に委ねられるものではない。私が<善>を選び取るよりも先に、<善>のほうが私を選んだのである。みずからの意思にもとづいて善良である者は誰一人としていない。・・・主体性は知らぬ間に<善>の光線を浴びてしまう。かかる事態は非自由の形式的構造を描いているのだが、にもかかわらず、主体性はこの非自由が<善>の善良さによって例外的に贖われるのをまのあたりにする」(p41)

私を「責任」に任命するのは、如何なる意思でも他人でもない。それは<善>のなすことであり、最初から人の手を離れた事柄なのである。私は<善>の手により、始めて「殺すな」「生かせ」という命令を聞き、それと同時に「同族」というもの、また自分だけが「感受しうるという特権的な地位にあること」を知るのである。


このような議論を聞くと、私は常に「不安」に襲われる。これは「神」(名は出されていないが、<善>のイメージの裏表には、神のイメージが見え隠れしている)への絶大な信頼があるからこそ、可能な議論ではなかろうか。人間は「自然」的に、「責任」を聴取する<善>なるものである。これは人間をそのように作った神、若しくは人間をそのように導く神を信頼しているからこそ、そのように断言できるのではなかろうか。自然を征服すべきものではなく、自然に身を委ねる、神を設定する宗教は多かれすくなかれそのような要素を包含すると思われるが、レヴィナスもそのような宗教的な前提に立つからこそ、このような議論をすることが出来るのではないだろうか。

けれども逆に、ホッブズの議論は、「自然」を征服する人間の力、「人工物」「機械」を作り上げる人間の力に大幅に依存している。それは人間の中の「自然」を認めない。若しくは人間の中の「自然」を、「万人の万人に対する闘争」のような、ある意味「歪んだ」形のものとして作り上げる。そこにあるのは自分以外のあらゆるもの、或いは自分の初期条件たる「自然」への徹底した「不信」である。ホッブズは自然から脱した機械の世界を合理的に作り上げることの中にしか、人間の理想と可能性を見出すことが出来ない。それは自然の中でそれと調和して生きている他の生き物のようなあり方を認めない。人間は楽園から永久に追放され、蛇の智慧を以って人工の楽園を作り出さざるを得ないよう、徹底して宿命付けられた存在なのである。


人はこの、「信頼」と「不信」の間を常に揺れ動く。他者は信頼できない。信頼できるのは自分だけ。機械、こそが自然を退け、自分をその威力から守ってくれる。このように不信は、人間よりも機械の信頼、また弱肉強食の思想を、必然的に導く。
他方、他者は信頼すべきもの、「生かす」べきものである。「同族」としての他者、特権的に「感受」する者としての自己の主体性に気づくことは、人間の自然的なあり方である。みずからが傷つき苦しむことを引き受けること、即ち他者を「信頼」することによって、弱肉強食とは全く異なったあり方が自ずと開示される。


もはやこれは、「論証」などといったものを超えた、「信仰」による世界観の相違ではなかろうか。他人は信頼できない、というのは一つの経験的命題であるが、全ての他人が信頼できない訳でない以上、「万人は万人に対して狼である」とまで言い切ることは、この命題の不当な拡張であり、虚偽である。他方、他人は信頼すべきものだ、というのも、一つの経験的命題であるが、信頼できない、信頼すべきでない他人というものもいる以上、「全ての他人を信頼すべきである」とまで言い切ることは、この命題の不当な拡張であり、虚偽である。ホッブズもレヴィナスも、その命題を文字通り取れば、何れも虚偽となる。

だが、これはレヴィナスの議論が「懐疑論」(p32)たる所以なのだろう。ホッブズの命題は、合理的な「論証」として圧倒的な威力を誇ってきたのであった(現代においてでさえ、殆どの憲法理論は、ホッブズの命題をその根拠としなければ説明不可能である)。個人の自由、合意なければ拘束なし、という考え方は、一方で他者からの抑圧を退けるための武器として、政治的・社会的に、度々活用されてきた。だが、自由は常に、他者を害することの自由、殺人の自由をも、同時に含意しうる。レヴィナスはここで、この殺人は、人工的な社会の弊害ではないかと考えるのである。
果てしなき懐疑論としての哲学。人が人を殺す、人間のみが同族同士殺しあう、この余りにも自明な命題を、レヴィナスはもう一度問い返す。果たして本当にそうなのかと。それはホッブズ的な「社会」、「人工」的に作り上げられた「自由」こそが、人間をしてそうさせているのではないかと。動物ですら、同族殺しはしない。人間に与えられた「自然」も、「同族」を「殺すな」という命題を呟いているのではないだろうか。人工の社会の騒音に埋め尽くされていく日常の中で、一片の「人間的」な「自然」について、レヴィナスは、もう一度問い返そうとするのである。



散文(批評随筆小説等) 殺さないものとしての同族−「存在の彼方へ」を読んでみる15 Copyright もぐもぐ 2004-08-16 13:54:10
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