オリジナリティってなんだろう?
北村 守通

「言葉にオリジナリティはない」という言葉を耳にすることがある。
 「オリジナリティを感じない作品だ」という言葉も耳にする。
正直感じないわけではない。しかしそのオリジナリティってなんだろう?と最近ふと考えてしまうことがある。(時間にして38秒ほどで、結論が出ずに考えることそのものを拒否してしまうことが多いのだが)

 例えばそれが新しい技法だとする。水泳に当てはめてみよう。水泳には現在4種類の泳法が存在している。『クロール』『背泳』『平泳ぎ(ブレスト)』『バタフライ』の四泳法だ。このうち最も新しい泳法は『バタフライ』なわけ(平泳ぎを変形させたものとして開発されていった)だが、それ以降新しい泳法というものは開発されていない。まぁ、日本独特の『古式泳法』というものもあるにはあるが、それはどちらかというとシンクロに近いだろう。で、今後第五の競泳の泳法が生まれるかといえば多分無理だと思う。と、いうのもこれらの四泳法も決して最初から現在のスタイルであったわけでなく、様々な改良が加えられた結果、今の形に落ち着いたのだ。
 では競泳選手の『泳ぐ』という行為にオリジナリティはないのか?
 もちろん『否』である。分かりやすい技法で言えば『バサロスタート』なんかも選手のオリジナリティだったし、クラウチングスタートとか、泳法とは直接関係しないようでいて密接に関係するポイントで選手自身の工夫が見られたりする。あと、まったく地味で目に付きづらいのだが、選手の体格や耐力に応じたペース配分や、水の捉え方、頭から体に伝わらせる全身運動をどのように推進力として活かすか、等などとその動き一つ一つが選手自身のオリジナリティなのである。そしてその動きが本当に自分自身の体に合ったものであるかどうか、他の選択肢はないのか、ということを選手達は常に取捨選択し模索しているわけなんであるが、そこまで達するのには当然それ相応の『泳ぎこみ』が必要になってくる。その『泳ぎこみ』の過程というのは当然『模倣』である。
 つまり、最初無条件なる『模倣』があって、そこから自分自身にあった『運動性』を展開する方法を考えていく、その取捨選択の判断なり行為そのものが『オリジナリティ』だと思うのだ。もちろんそこから技法なり表現方法なりに対する『新しさ』としての『オリジナリティ』の追求を否定するつもりは無い。が、それが生まれないからといって悲観的に捉える必要は決して無いのではないかと思う。たぶんそれはきっと、全ての模倣が展開されつくした上で発生するものであり、またもしかしたら発生するという保障はどこにもないものなのである。あるいは実は目に見えない形で『新しい流れ』というものは進んでいるものであって、ある日それは突然見える形になって現われたりするものなんである、と思ったりもする。そして肝心の『オリジナリティ』なんであるが、それは例えば「数ある言葉の中から、その言葉の組み合わせを選んだ」という行為そのものが作者のオリジナリティであり、面白いか否かは別としてオリジナリティを観ることはきっといくらでもできるはずなんだと思う。
 と、なると、次はそのオリジナリティを読み取る目を持たせる訓練、ってのが結局必要になってくるんだろうな。きっと。

 う〜ん、まとまりがなくなってしまった…
しかしなんで今日はこんなに尻切れトンボに熱くなっているんだオレ…
※mixiの日記より転載


散文(批評随筆小説等) オリジナリティってなんだろう? Copyright 北村 守通 2009-02-02 00:43:51
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