暗号
土田
十一月八日
渋谷のハチ公前で
ブラのホックが外れてしまうぐらいの豪雨のなか
べろんべろんになったビニール傘の先端
つまりは乳首を極限までつまんで引っぱった感じの銀色の部分を
思いっきり暗い空めがけてぶっ刺していた
まるでファミコンの魔界村の主人公アーサーみたいだったが
幸か不幸かプリンセスをさらったのは魔王アスタロトではなく
大手企業に勤める優しそうなサラリーマンだった
そして最大の難関は強敵レッドアリーマーとの対決ではなく
詩で飯を食ってゆくという何とも安直な妄想だった
これがゲームだとするなら紛れもなくクソゲーだった
ハチ公の銅像の周りを何週回っても全クリできず
誰かと目が合った時点で即ゲームオーバーだった
さしずめ今日の渋谷には
恋を恋する馬鹿臭く青臭い男と
それを指差しながら爆笑したり
ひそひそと白い目で気味悪がる
恋に恋するやつらばかりで
その構図だけが唯一このゲームの魅力だった
五月十三日
成増八時六分発の東武東上線準急池袋行きに揺られ
中途半端な満員電車の中途半端な冷房のなか
涙のような汗で塩分を自給自足し
うしろのOL風ののっぺらぼうの背中に
のしかかりながら千切り絵に勤しんでいた
しこしこと明るい未来や切なる願いをこまかく千切っては
新聞広告の裏がわにべたべたと貼りつけていった
一瞬の風景を切り取れるほどの日本のゴッホでも
ましてや裸の大将ではなかったので
目の前のいかにも語頭に超を多用するような娘に
理由なくに嫌われていそうなのっぺらぼうの
あたまのバーコードを毛の一本一本まで再現していった
思えば小学校四年の夏だった
家の台所の天井から
びーろんと伸びたガムテープみたいなやつ
そのガムテープみたいなやつに
びっしりと蝿が散りばめられてあった
それを夏休みの自由研究として
しぜんのせつりという題名で学校へ持っていったら
ヤニとコーヒーのにおいで年中むんむんしている
剛毛の先生に重い拳骨のとともにたくさんの唾を食らった
通信簿に教師や目上の人に対して
あいさつがきちんと出来ないと書かれ
やむをえず殺さざるを得ない
虫の皆さんの死骸に軽い会釈をし始めたのはそれからだった
三月九日
雨上がりの四ツ谷駅前で
うすく油の膜をはった濁りきった水たまりを見ていた
しゃがみこんでいた数十メートル先では
もっこり倶楽部というストリートミュージシャンが
いままさに路上ライブを敢行しようとしていた
大きなダンボールの板にでかでかと
グループ名とライブ音源三百円という文字が
派手なマジックで書かれていた
ふたり組みの青年たちの髪型はふたりとも鳥の巣だった
始まったふたりの折り重なるハーモニーに
だれも足を止めるものはいなかったが
しばらくしてサッカー部らしき男子高校生のグループが通りかかり
冷やかしなのかそれともどちらかの苗字なのか
なぁかざわ、なぁかざわ、と手を叩いていた
もっこり倶楽部はそれを声援ととったのか
鳥の巣をせわしなくわさわさぶんぶんと振り回しながら熱唱していた
たくさんの言葉のかけらが音に乗って吐き出されていった
〜追いこみ過ぎた自分を塞ぎきれずに
あたまをからんからんとぶん回せば
ああ、甘えと旅立ちとの葛藤みたいな〜
一曲歌い終わるとサッカー部らしき男子高校生のグループは
そそくさとその場からいなくなりどこかへ消えていった
あっけにとられてしまった目をもう一度水たまりに向けた
カメムシが一匹裏返しになりながらもがいていた
もっこり倶楽部の歌声で広がった波紋でないことが
いま目と耳に入ってくるどんな出来事よりも先にすとんと心に落ちた
八月七日
新宿のセンチュリーハイアット前で秋田駅行きの夜行バスを待っていた
二十二時発だというのに一時間前についてしまった
雪駄と短パンとランニングというなんとも場にそぐわない格好だった
まるでおれは田舎の虫取り少年だった
むしろそれをピエロのように演じているつもりだった
腕を組んだ若い男女が場違いな格好を
チラッと一目見てホテルのなかに入っていった
おれはご勝手にどうぞとぼそっと呟きながらも
人の解釈の自由に日々の当ての無さを悟った
昔々どこぞのじいさんは悟るまえ木を切り水を運んだという
そして悟ったあとも木を切り水を運んだという
だからおれはこれからも夏には虫取り少年の格好でいよう
携帯で時間を見ると彼女からメールが届いていた
目を凝らしながら見つける数えるくらいの星空も十分素敵だよ
そう返信しようとしてそのままメールを未送信ボックスへと追いやった
送信履歴には彼女と二、三人の名前しかなかった
おれは儀式のように空を仰ぎ星を探したあと
宛て先のないメールを五文字打ってそして削除した
八月十五日
血色のいいブラウン管をのぞいてみると
くそばばあが典型的な日本の家庭料理をこさえていた
そこにはおれに伝えたいものなど何ひとつ見つけられなかった
久しぶりに実家の自分の部屋に掃除機を掛けた
おれの邪魔ばかりする彼女の掃除機の掛け方を思い出して
口を大きくあけた三十五度の夏空に
ふたりのやり取りの最後の塵が吸い込まれていった
昨日中学校の陸上部の後輩の女の子から電話番号を聞かれて
おれはこの子とはもう寝れるんだと思った
それはまるでニュース番組で飛び交う標準語のような過ちだった
式の後銀行で奨学金を下ろして
半年ぶりの友達と一緒に息子たちを慰めにいった
指名した女と一緒に浴びたシャワーがひどく熱かった
その日おれは人に成った
その日まで覚えていたら
必ず死ぬという言葉を思い出したのは
人と成ってから数日後の
浜松町行きの夜行バスのなかでひとり
おれと同じく人と成っていたかもしれない女の子が
携帯の液晶画面をちらつかせる淡いひかりで起きた
その五分前に眠った夢のなかでだった
2007/9/28