サーカス
小川 葉

 
 
 大人は道化師のふりをして、子宮を配る。子供たちが記憶の中に、ゴムの匂いを思い出してることが、不思議でたまらないのだけれど、避妊された(あるいは否認された、風船からこぼれてしまった、命のはじまりのような液体が、固体としてなお白くにごり続ける、道化師の白塗りの顔が、溶けてゆく様子を自分の姿に重ねて、わたしたちはかろうじてこの世界で、形を保っているのだ。子供は道化師のふりをした、大人に魂を売る。ほんとうは売りたくはなかった。けれど、子供はたいていそんなふうに 売るものを売ることでしか 魂でありえない。テントの中から覗いてる、老いた子供が(あるいは汚れてしまった獣が、足の裏にとても重いものを積み上げられて、動けなくなってしまったような、特殊な気持ちになっている。 誰もが人として産まれたらならば、道化師に出会ってしまうことだろう。そしていつしか、自らが道化師と化していることに、気づいてしまうことだろう。 サーカスは、そんな人のかなしみを、慰めるかのように人の心を昂らせ、またいつかの帰り道と同じ、郷愁を残して、去りゆくことだろう。手に汗握ったあの頃と、同じ掌を合わせて、祈ることをするのだろう。 わたしたちは、旅をはじめたならば、その道中、サーカスを逃れて進むことはできない。ロードムービーでさえ、その道中、いい大人が童心にかえってしまったら、そこにはいつも死がつきまとう。死んでおしまいの結末が、美しく思えたこともある。 だからわたしたちはサーカスにおびえ、心待ちにしてる、その瞬間をおぼえていない。そのかわりに真実として残った、自分の老いた顔を白塗りにして、わたしは道化師でした、と言い訳のように自らを、釈明するしかないのだ。 サーカスは、サーカスでしか有り得ないように、生きることしかできない、人間には 真実があるかないか、そのふたつにひとつしかない。わたしはまだ、わたしのサーカスを知らない。
 
 


自由詩 サーカス Copyright 小川 葉 2009-01-04 20:39:46
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