段差のない家
木屋 亞万

中学時代の恩師が猛烈に車にひかれたと聞いて、慌てて病院へ駆けつけた
3階のナースステーションを抜けて、突き当たりにある個室に先生の名があった
ノックして扉を開けると、そこには一台の車があった
長方形の狭い個室に詰め込むように、ピッタリと乗用車が納まっていた
扉を開けたまま凍りついている私のもとに、大きな缶を持った奥さんが現れて

「あら、わざわざお見舞いにきてくださったの、主人も喜びます。今ね、ガソリンを譲ってもらおうと思って、近くのガソリンスタンドまで行ってきたんだけど、灯油みたいにポリタンクに詰めてって訳にはいかないみたい。いろいろと手間やお金がかかるものね、早く退院してもらわないと」
と言いながら、ガソリンを携行缶から先生に注ぎ込んだ後
鍵を差し込み、エンジンをかけてあげていた

「やあ、悪いね、心配させてしまって。3日後には退院できるらしいから、是非また家にも遊びに来なさい。君くらいだよ、わざわざ病院まで来てくれたのは」
先生はフロントガラスにウォッシャー液を出して、ワイパーでゴシゴシしながら、そう言った

「そうね、ぜひ来て頂戴、主人のために改築したんだから。あなたにも見てもらいたいもの。これ住所だから」
奥さんはワックスを塗る手を休めて、住所を書いたメモを手渡してくれた

先生の家には前に一度だけ行ったことがあった
その時はごく普通の庭付き一戸建てという感じだったけれど
自動車で住めるように改築したということで
どのような家になっているのか、期待に胸を膨らませながら
1週間後に先生の家を訪ねた

外観は全く変わっておらず、また車庫にも先生の姿はなく
ということは屋内にいるのだと、インタホーンを鳴らす
「どうぞ」という奥さんの声が聞こえて、よく手入れされた松の植えられた庭を抜け
ガラガラと扉を開ける、と目の前にスロープがあった
いや、スロープというレベルではない
緩やかな傾斜の坂道がずっと真っ直ぐ、先が見えないくらい遠くまで続いていた
またしても扉を開けてフリーズしている私の元に
勝手口から奥さんが回ってきてくれた

「そっちは主人専用のアウトバーンよ。人間用の入り口は裏の勝手口なの、驚かしちゃってごめんなさいね。もうすぐ主人も帰ると思うから、お茶でも飲んで待ってましょうか。もう、あの人ったら、毎日子どもみたいに速度無制限区間で遊んじゃって、馬鹿みたいよねえ」
と、奥さんは恋する少女の横顔で微笑んでいる

台所でお茶しながら、奥さんは
「この家も今は、道と台所だけだから、スッキリしちゃって。階段もドアもない、外壁はあっても内壁はない、ずううううっと道なの。主人もずっと惹かれてたサニーになることができて、幸せそうだし、良いセカンドライフよね」
と、言ってテーブルの写真立てを見る
どこかの山の頂で先生と奥さんが肩を組んで、にこやかに写っている写真だった
「これが、主人の最後の笑顔よ」
と呟いた奥さんの憂鬱を吹き飛ばすような、軽やかなクラクションに呼ばれ
私たちは玄関へと向かう

「あなたも、うちの主人を尻に敷いてみる?私道だから免許がなくても平気よ」
と、明るく笑う奥さんと先生に乗り込む
エンジンを好きなだけ吹かして私たちは、段差のない家を最高速度で駆けていく


自由詩 段差のない家 Copyright 木屋 亞万 2008-12-16 01:16:15
notebook Home