あをの過程さんの時間論−「存在の彼方へ」を読んでみる12
もぐもぐ

丁度、レヴィナスの時間論についての議論が出てくるところで、それに関係する部分のある興味深いエッセイを読むことができたので、今回はそれを論じたい。「あをの過程」さんの、「ダンショウ(2) ZONEに関する」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=17147と題するエッセイからである

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2004,8,9追記

なお、以下で述べるこのテキストについての解釈は、全て私個人によるものです。
また、以下での私の解釈に関連して、作者である「あをの過程」さんの方から、詳細なコメント(この投稿のノート部分参照)と、批評(「もぐもぐさんの呼びかけに応える2 ――裏ダンショウ(2)」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=17263)とを頂いています。ご自作の丁寧な解説ともなっていますので、是非御覧下さい。

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あをの過程さんは、その中で時間について次のような論点を提出している。

「われわれは、本当に日付どおりの順番で生きているのだろうか。このこと自体、考えてみれば疑わしい。われわれは、初めからではなく最後から生きているのではないだろうか」

これは、ある程度日常的な観念のレベルに引きなおして定式化すると、私たちの「意志決定」、若しくは「生きる目的」が何処からやってくるのか、という問題である。もし時系列順に生きているだけならば、私たちは目的(end)を持っていることはありえないのではないだろうか。最初から目的(end、死)を有しているからこそ、私たちの「生」があるのではないか。
哲学のフレームでは丁度、ハイデガーが立てたような問いである。これまでにも数度触れてきたが、ハイデガーは、「死への先駆的覚悟」によって、「存在の意味」(生の目的)が明らかになる、という形で、人間のあり方を特徴付けたのだった。私たちは終末、死(end)を知ることにより、初めて、目的(end)をもった生を生きることができるようになるのではないだろうか。

あをの過程さんは、これについて3種類の解釈を提出する。
「まず、レベル1。わたしたちは、胎児の時期、あるいは幼少の時期をほとんど覚えていない。その空隙は、われわれにとって非常な不安定感とそれゆえの求心的な作用(ある種のノスタルジー)を生じさせる。埋めようのない空白を埋めるものを探し、帰られるはずのない場所に帰ることを願い(普段は意識していないにせよ)、われわれは生きていく。その空白を埋めるものは結局、時間軸を想定すれば過去の一時期にマッピングされるものでありながら、人生の究極の目的地となるものである。そしておそらく、人はそれを手に入れながら、死んでいく。つまり、われわれは自らの死、自らの最後に来るはずのものを過去に持ち、まさにその地点から生をスタートさせているのである。」

これは、幼少期の記憶を「喪失」と捉え、その「喪失されたもの」の「回復」を「目的」として捉える場合の解釈である。この場合、「喪失」は、一種の「死」であって、「死」は既に過去に生じていたものであるということになる。そして、「喪失されたもの」=「死」を再度「手に入れる」こと(「生まれ変わり」)、それが生の「目的(終わり)」=「死」となる。
「死」が生物学的な「生命活動」の終了を意味するものでなく、人生の目的との関係で象徴的に捉えられているので、抽象度はかなり高い。ただ、「生」と「死」、等を「人生のあり方」の転機についての「象徴」として捉えれば、一般的な観念としても理解できないわけではない。
本来の趣旨をかなり歪めてしまうかもしれないが、敢えて理解のためにやや乱暴に単純化してしまうと、「私」は「大人」になるのと引き換えに、「幼少」の頃の記憶を「喪失」するわけである。つまり、「幼少」としての私が「死」ぬことによって、「大人」としての私は「誕生」する。けれども、「喪失」された何かは、絶えず「ある種のノスタルジー」の形で回帰してくる。私はそれを取り戻そうとする。そしてそれを取り戻すことによって、「大人」としての私は「死ぬ」(これは順番としては逆かもしれない。「死ぬ」ことによって「取り戻す」のかもしれない。本文からは何れとも確定できない)。「死ぬ」と言っても但しそれは、恐らく幼少としての私への「生まれ変わり」であり、ある種の「生」の回復でもある。

この解釈における生は、未来に向かっているのか、過去に向かっているのか、非常に曖昧である。だが、「目的」というものが何処から確定可能なものになるのか、非常に上手く説明している。「私」はいつでも現在にいるのだから、「目的」は常に私の現在か過去において生じるものでしかない。そしてそれを、失われたものの回復として、過去に求めるのである。

哲学の例でいえば、プラトンの「想起説」を連想させる。想起説によれば、「学ぶ」ことが可能であるのは、それが前の生において有していた記憶を「取り戻す」作業に過ぎないからだ。ここにおいて「目的」(学びにおいて目指されるもの)は、失われていた「記憶」を「正しく」「取り戻す」ことである。喪失されていた過去によって、獲得される未来の結果も同時に規定されている。人は失われていた記憶(過去)と、回復される記憶(未来)との間に渡された掛け橋である。この間を渡り歩くことが「人生」なのだ。


この解釈においては、実は私の生は、殆ど最初から定まってしまっていると言ってよい。「取り戻す」べき「記憶」は既に「与えられて」しまっており、私はその内容を「変更する」術を持たない。私にできることは、それを「忠実に」「取り戻そう」とすることだけである。
ある意味、これは変化の少ない、安定的な社会において現れて来そうな解釈である。見つけるべきものは既に全て過去において見つけられてしまっている。必要なのはそれを「取り戻す」(思い出す)ことだけである。
それでは、社会にはなんらの「変化」も存しないということになってはしまわないだろうか。「変化」の「可能性」について、この解釈では説明することができないのではないだろうか。
そこから次の、別の解釈が要請されてくることになる。

「レベル2。誕生の直前、わたしたちにとってはすべてのことが未来である。すなわち、すべてのことが自分に起こりうる可能性をもつのである。しかし、生まれてしまえばそんなことはなくなり、可能性は両腕の間から次第に零れ落ちていく。大人にもなると、かろうじて想像力の迂回路を通ることで、「あの出来事は自分に起こったことかもしれない」という可能性を身に引き受けることができるだけである。
 すなわち、誕生の直前の時点で、わたしたちはすべてを持っている。つまり生きることは、その持ち物をなくしていって、最終的にこれ以外ない、という一人の自分になることだとも言えるのである。・・・普通の考え方において、手に入れていくことが人生だと言えるならば、われわれはすべて手に入れてしまっている、というまさに最後の段階から、スタートしているとも言えるのである」

この解釈は、「可能性」というものを認める(多分、レベル1の説よりも、理解しやすく感じる人も多いのではないか)。生まれたての赤ん坊は全ての「可能性」を持っている。そして成長するにしたがって人は「可能性」を失っていく。若い頃(特に青年期)には、自分には全ての可能性が開けており、何にでもなり得るように感じられる訳だが、ある程度年を取るとそうではなく、自分のできることが限られていることが分かってくる。或いは、自分のできることを知り、若しくは自分のやることを限定していかなければ、何一つやり遂げることができない。
これは一般的な感覚としてもわかりやすいものではないか。沢山の物事に手を出し続ければ、どれも大成しない。何かをやり遂げようとするなら、それだけに絞って、それに限って取り組む必要があるのである。
何ものかになるということは、それ以外のものを断念することである。

哲学のフィールドで言えば、ヘーゲル弁証法に類似の観念が見出される。ヘーゲルは一般的に、あるものが、否定を受け、その否定を「止揚」することによって、より高次の段階に「生成」するとする。人の「意思」については、例えば「法の哲学」において「意思は・・・ただ抽象的に普遍的なものしか欲しないとするなら、それはなにものをも欲しないのであり、それゆえなんら意思ではない。意思の欲するものである特殊的なものは、一つの制限である。というのは、意思は、意思であるためには、総じてこれを制限しなくてはならないからである」「自我はこのように自己自身をある規定されたものとして定立することによって、現存在一般のなかへ踏み入る」(「ヘーゲル 法の哲学 I」中公クラシックス、、藤野渉他訳、2001年)としている。「特殊的なもの」とか、「現存在一般のなかへ踏み入る」という表現が分かり難いが、砕いて言ってしまえば、単に抽象的な観念のレベルを超えて、現実具体的に通用するもの(一人前)になるということである。

他の可能性を否定していくことによって、現実具体的に通用する何者かになる。ここにおいては、先の説とは違い、「思い出すべきもの」(目的)の内容は、誕生した時点では確定されていない。人生の旅を経る中で、様々な可能性を否定し、或いは否定されていく中で、一本の道が見出されていく。そして最後に、「これが私の目的だったのだ」というものが、はっきりとする。

可能性というものを認めながら、それが個人の完全な自由になるわけでもなく、可能性は、それが現実の人生経験(可能性の否定)の中から見出されていく「目的」に叶っている場合に、初めて実現される。
これは、文学などでかなりよく見受けられるテーマであろう。自分のすべきことが何なのか、経験し、否定を重ねるなかで、最後にようやく見出していく。所謂ビルドゥングスロマンである。やや理念化・パターン化されやすい嫌いはあるが、人生の真理の一面を鋭く突いたものであると思われる。

次のものも、基本的にはこれと類似の構造を持っている。

「さあ、レベル3。・・・われわれの生きていく中で出会う出来事というのは、事後にさまざまな解釈を呼び起こす。しかし、それが起こった瞬間は、まさにそれは一つの出来事であって、他ではない。では、もしかしたらわたしたちは、事後の解釈によって悶々としている未来から、遡及的に生きていって、その出来事がまさに一つの出来事であった時期に帰ろうとしていっているのではないだろうか。そしていうまでもなく、最大の出来事は誕生である。われわれは、自らの死から出発して、さまざまな解釈を出来事に返しつつ、自らの起点となるたったひとつの出来事である誕生に向かって生きているのではないだろうか。誕生から死へと老いていくように思うのは、単にわれわれが順番を逆向きに把握しているだけなのかもしれない」

これは先のものに似ている。時間の経過が実際の経験ではなく「解釈」という形であらわれ、また「解釈」の対象になるのが世界内の全ての「出来事」である点を除けば、あとは基本的に共通である。出会った様々な出来事は多様な解釈を許す。いわば、起きてしまった出来事は、「これは〜である」と「確定」されるまでの間、無数の仕方で「解釈」される「可能性」を持っている。
過去の出来事は私の生の場合と違って、成長したりその状態が変化したりすることは本来ないはずなのだが、「解釈」というレベルで言えば、そのようなことはなく、一定の意味内容を持つ出来事として最終的に「確定」するまで、様々な変遷を辿る。
「未来から、遡及的に生きていって、その出来事がまさに一つの出来事であった時期に帰ろうとしていっている」というのは、もう少し普通の表現をすれば、複数ある解釈の「可能性」(未来)が、確定されて一つの「事実」(過去)になる、ということである。何らかの事件が起こったとき、情報が少なく、噂話が錯綜するとき、その事件の真相は様々なものである「可能性」を持っている。だが、次第に事態は明らかになっていき、外堀は埋められて、真相はこれこれのものであった、と「確定」される。確定された解釈は、その後は「解釈」ではなく、「事実」として扱われるようになる。これをアフォリズム的に表現すれば、「解釈とは、未来から過去へ遡及する運動なのだ」(解釈により、可能性は絞り込まれて一つの事実として確定される)と言うことができるだろう。
解釈主体としての私は、私以外の様々な「出来事」に取り巻かれている。どれもが無数の解釈を許す。出会った初めのころ、すべての出来事は無数の「未来」を持っている(=多様な解釈を許す)。けれども、時間がたつにつれて、私たちはその出来事の真相(事実)を知るだろう。出来事は確定された「過去」のものになる。出会いにおいて、私たちは「未来」(多様な解釈の可能性)から出発して「過去」(確定された事実)に至る。
これを全ての「出来事」について敷衍するとき、「私の生」という出来事も、またこの解釈の対象となる。この場合、考察の対象になるのが「私の生」という点で共通するため、事情は、レベル2のものと非常に類似することになる。ただ、実際の成長、人生経験による「可能性の限定」ではなく、同一の出来事に対する「解釈」の展開による「可能性の限定」である点が異なっている。私の(恐らく生物的な)誕生という事実は、ありとあらゆる「解釈」を許す(誕生=未来)。その「解釈」は、死の時点において初めて「確定」し、一つの「事実」(=過去)となる。

「誕生」という事実の解釈というのは、普通余り念頭に浮かぶことがないので、確かに異様な説のようにも見えるが、それほど摩訶不思議なことを主張しているわけでもない。例えば、親にとって私の誕生は、もしかしたら喜びであり、或いは苦しみであり、或いは憎しみであり、或いは希望、或いは絶望、等の感情を意味するものであったかもしれず、或いは結婚、離婚、職業につく、変更する、新しい家族ができる、諸々の面倒な手続と世話、等々の事態を意味するものであったかもしれず、その解釈は無数に可能である。生まれたとき、私は私自身で、私の誕生の意味を捉えることはできない。しかし、死に至るまでの間に、私はそれにまつわる様々な事情を身の回りの人(親とかその親戚とか)から知るだろう。そしてその事情をさらに解釈するための知識を、諸々の人生経験(例えば自分が子を持つ経験をする、子を持つことに関係する様々な事情や感情を知る)から得るだろう。そうした種々の知識を以って、私は、死の時点で、私の誕生の意味を「確定」できるかもしれない。

これはやはり、哲学で言えばヘーゲルに相当するような観念だろう。ヘーゲルは、歴史の終末において、初めて歴史の意味が明らかになると考えた。歴史が始まった理由は、歴史の終点において、(それまでに蓄積された種々の出来事と、経験と、哲学的知識を以って)初めて確定する。ヘーゲルはそれを如何にも壮大に「世界史」のレベルで考えたわけだが、これを個人レベルで観念できない理由はない。個々人の歴史の意味は、その終点(死)において、初めて確定するのだ。


しかし、ヘーゲルの「世界史」は、歴史についての「大きな物語」を語るものとして、痛烈な批判を浴びた。「歴史の意味は組み尽くすことはできない」、「ヘーゲルは、歴史を一つの目的論に帰結させようとする、全体主義者だ」というような批判が噴出し、そうした「目的論」を拒否する、「ポストモダニズム」の思想が、一時期の思想界を席巻した。
それに比べると、あをの過程さんのこの解釈は、「個人」についての「歴史」を語るものであるので、かなり問題性は少ない。が、人の生を一つの方向性へと導こうとする、強烈な求心性を持ったものであることには、あまり変わりがないように思われる。例えばこの思想には「遊び」の要素があまりない。全ての経験は、「誕生」という「最大の出来事」を「解釈」するための「ツール」としての位置付けを持つに留まり、それ自体としてどのような意味を持つものなのか、はっきりした位置付けを与えられていない。何故解釈されるべきが「誕生」なのだろうか。何故「誕生」が「最大の出来事」であると、無条件に前提することができるのだろうか。ヘーゲルに加えられた批判と同じで、このような「目的論」は常に「論点先取」になってしまうのではないか。(注、これは、個人として「誕生」を「最大の出来事」と捉える思想を持つことを、否定するものでは全くありません。単に一般抽象的な思想問題と考えたときに、論理上出て来うる論点を述べたものに留まります。)


「時間と生きることの問題は非常に取り組むことが困難な問題である」と、あをの過程さんは適切にも指摘している。時間(これは往々にして「歴史」でもある)と生について考えることは、往々にして、解くことの困難なパラドックスが付きまとうのだ。


さて、それでは、「存在の彼方へ」におけるレヴィナスは、このような「目的」の問題に、一体どのように応えるのであろうか。その手掛かりは、「時間」(=歴史)が「目的論」と持つ、密接な関係の中に含まれている。時間の中で考える限り、そこにはどうしても目的論が付きまとう。レヴィナスはこの、両者の強固な連結から抜け出す道を探そうとする。

それが、「隔時性」という概念である。
レヴィナスの発想を簡単に言ってしまえば、「歴史」と「時間」とは実は異なったものである。「歴史」は常に記憶によって取り戻すことができるが、「時間」はそうではない。「時間」は「経過」する。「時間」は「失われる」。「時間」は「喪失」である。肉体に次々と皺が刻まれていくように、「時間」は私から失われていく。記憶の中で何時までも若い頃を思い出すことが出来ても、現実の時間は、私の手を通り過ぎ、永久に戻ってこない。この「失われた」「時間」、これを手掛かりとして、レヴィナスは、「歴史」の「目的論」に風穴を開けようとする。
(この「失われた(喪失)」という概念は、主観の時間と客観的な時間の誤差とも表現できる。つまり、思考主体としての「私」は、いつでも「今」にいると考えるわけだが、一方で物理的な(時計の)時間は常に「進んで」いるはずである。時間は進んでいるはずなのに、私はいつでも「今」にいる。これは一体どうしたことか。計算が合わないのではないか。「進んで」いく時計の時間と、常に「今」である私の時間との間では、何かが「喪失」されていると考えなければ、計算が合わないのではないか。その「喪失」は、通常意識に上らない。だが、皮膚に刻まれていく「老い」は、確実にそれを明らかにする。思考主体としての「私」が、常に「今は今だ、私は何時でも現在にすぎない」と主張しても、現実の身体は時間の「経過(英語でlapse、=喪失)」というものを確実にあらわにする。私は時間の経過という事実を、絶えず見落としているだけなのだ。)

「歴史」の中で見失われている「時間」(lapse、経過=喪失)。思考主体である私は往々にして「歴史」の牢獄に囚われてしまう。しかし、この見失われている「時間」(経過=喪失)を見つめることで、早急に目的論を目指す思考の中に浮かび上がってくるものはないだろうか。レヴィナスは、この点を「隔時的」な「過去」、「起源に先立つ過去」(私が決して思い出すことの出来ないある瞬間)との関係という観点から、考えていこうとする。思い出せない、意識に上らない場所で私と取り結ばれている約束、それがないか。歴史と記憶の中で見出されていく「私の」目的、それとは異なるあり方がないか(この限りで、レヴィナスは、「目的論」と立場を異にする。レヴィナスによれば、「目的論」は「存在(生)」の「利害・闘争」に仕えるものに留まり、それとは「別の仕方で」が捜し求められなければならないのだ)。レヴィナスはそれを、この「起源に先立つ過去」に締約された「責任」という観点から見ていこうとするのである。そしてそれは、「過ぎ越し」の場面に現れている旧約聖書の神の威力(暴力と責任、若しくは<善悪の彼岸>−「存在の彼方へ」を読んでみる11参照)のような、自らが記憶の中に姿をあらわす以前に、その者を服従させてしまうような、そうした何かとして後に提示されることになる。


この「隔時性」という概念は、かなりややこしいし、私自身も十分に把握しているとは言い難いので、次回また別に検討したい。



なお、この文章中で示した、あをの過程さんの時間論についての解釈は、全て私個人の解釈に留まります。
最後に、断りもなく議論に引用させていただいた、あをの過程さんと、その素晴らしいエッセイに、心より感謝致します。ありがとうございました。




散文(批評随筆小説等) あをの過程さんの時間論−「存在の彼方へ」を読んでみる12 Copyright もぐもぐ 2004-08-07 18:26:25
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