暴力と責任、若しくは<善悪の彼岸>−「存在の彼方へ」を読んでみる11
もぐもぐ


読み、語られる度に恐怖を感じる思想というものがある。
それは人類の歴史上、しばしば「宗教」という名で呼ばれてきた。

極限的な思考は、常にある種の宗教を含んでいる。日常と非日常、現実と非現実の臨界が人の生死の場所であるならば、宗教は絶えずその臨界から発生して、非日常における生の指針を、日常における死の指針を与えてきた。

私は宗教やその思想に殆ど通じているわけではないが、例えばレヴィナスが依拠する旧約聖書、これが恐ろしい書物であるというのは、感覚的に伝わってくる。ニーチェも言っていたと思うが、そこには人間の残酷の全てが詰められている。全能の神の手により行われる、人知を超えた、余りにも不条理な、死と破壊。全ての残酷性の支配者としての神。そのような神が、数多くの人々に畏怖と、それゆえの崇敬を与えたことは、私にはさほど不思議なこととは感じられない。

「神」はあなたが愛し、或いは執着している全てのものを、何らの理由なしに奪い去ることができる。数瞬前に愛や友愛を交わした親しき者は、不条理にも次の刻にあなたの目の前で打ち倒されていく。なすすべもない。その恐怖。怒りを抱く猶予も与えない、突然の打撃。

旧約聖書はその神との契約の書である。
時に、多くの者が、その神の威力に依拠して異教を打ち倒し、自らの繁栄を図るために、聖戦を遂行してきた。

だがレヴィナスは、そのような戦争を論じる以前に、まず、旧約聖書が与える初源的な恐怖に立ち返ろうとしているかのように思われる。レヴィナスは、契約以前的な、理由もなく全てを奪っていく神の威力を、肯定する。そしてその理由なき暴力の前に、全ての者は平等に打ち倒されるのだ。


例えば私が個人的に、この神の威力が最も典型的に表されていると思う場面は、やはり「出エジプト記」中の「過ぎ越し」の場面である。(これは、或る意味、旧約聖書中の全ての律法遵守の根拠をなす記事であるように私には思われる。)

恐ろしいことに旧約聖書中では、そもそも神やその使い(天使)を見た者はそれだけで死ぬ、ということが前提になっている。苦しいときの神頼みといったような、生易しい神では到底ない。その神が、ユダヤ人をエジプトから出させるために、次のようなことをする。

「エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。「この月をあなたたちの正月とし、・・・イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに・・・小羊を一匹用意しなければならない。・・・それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。・・・その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。・・・あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あななたちにとって記念すべき日となる』」」

「モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。・・・翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」

「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。」

この「過ぎ越し」は、キリストの最後の晩餐(過ぎ越しの食事)にも出てくるし、出エジプトの根拠となった重要な場面なので、詳しい人は知っているかもしれない。それにしてもとにかく、古代人の世界観のぎりぎりの所を見せつけるような、強烈な思想である。しるしをつけていない家はすべて、神の手により、その初子を殺される(初子=未来とでも読めば、未来を悉く断たれる)。殺される側からいえば、何らの理由もなく、殺される。全くの不条理な出来事である。そしてそれだけに余計、圧倒的な威力である。

一応、これ以前に神や預言者が何度もエジプト王に警告を送り、その警告の度に一旦は王は出エジプトの約束をするわけだが、結局はいつも守らないので、最終的な強硬手段としてこうした措置が取られたような形にはなっている。このような予告は、上のような不条理な威力を幾分緩和する。警告を与え、それに従うか従わないかの選択の余地を与えた時点で、既に神は一定範囲で合理的に対応可能な(予測可能な)存在になっている。「契約」(旧約聖書)は、一方で神の不条理かつ圧倒的な威力を受け入れながら、同時にそれを一定範囲で予測可能なものにしようとする試みであった。
だが、依然として、神は、契約をしていない、或いは契約をしていてもそれに違反した相手(氏族、民族)を殺すことについて、何らの躊躇いも覚えない。その及ぼす力は圧倒的なものである。契約者は、合理的な計算をするより以前に、その威力への畏怖から自ずと契約へと導かれる。

このような、「無起源的な威力」「理由なき、けれども自ずから服従を呼び求める威力」のイメージは、レヴィナスの議論のあちこちで顔を覗かせているように思われる。


第6節、<存在すること>と意味、と題された節では、次のような描写がある。
「有責者の応答には、主題化も了解も可能ではない。・・・内包不能なものには、いかなる能力ないし容量も対応することがない・・・現在は私の自由のうちで始まる。これに対して、<善>は自由に委ねられるものではない。私が<善>を選び取るより先に、<善>のほうが私を選んだのである。・・・主体性には<善>を選ぶために必要な時間的猶予が与えられていない」
「かかる事態は非自由の形式的構造を描いているのだが、にもかかわらず、主体性はこの非自由が<善>の善良さによって例外的に贖われるのをまのあたりにする。ただし、この例外はかけがいのない唯一の例外である。いずれにせよ、みずからの意思で善良な者が誰一人いないのと同様に、<善>の奴隷も誰一人としていないのである」(どちらもp41)

「主体性には<善>を選ぶために必要な時間的猶予が与えられていない」。主体は、<善>(これが何なのかは一旦措いておく)を選択することについて、判断するための時間を与えられていない。これは上の、予告なしの神の威力に似ている。ある者は予告なしに打ち倒され、ある者は予告なしに服従する。神の圧倒的な威力は、それを受け入れる者に、あれこれと考える時間的余裕を全く与えない。命令が下される以前に既に服従しているか、それとも打ち倒されているかである。

余りにも巨大な威力が到来する危険を察知したとき、動物は本能的にその場から逃げ出す。旧約聖書的な「神」への服従もそれに似ている。余りにも巨大な威力が存在していることの予感に、人は自ずからそれに服従してしまう。これは「予感」であり、具体的な「警告」が与えられている場合とは異なる。目に見えて今にも威力が襲いかかろうとしている、そのような状況を認知してから(「警告」を受けてから)服従するのは、合理的な思考の結果であり、「予感」ではない。比喩的に言えば、大きすぎる威力はその「予感」を与える。そしてそれを察知した時点で、あるいはそれより早い時点で、人は既にその威力に服従しているのだ。

それぞれに、想像しうる限りの強大な威力を想像して欲しい。そしてそれと向き合う時の「恐怖」を。判断を下す以前に私はその威力に従っているだろう。あたかも自動人形のように、強大な威力は私に判断する時間を与えない。そしてその圧倒的な威力が、私がそれに「自ずから」服従することとなる全ての根拠である。逃れることもできず服従する、それは理性ではなく、位相転換した恐怖(心理学の騙し絵で見方によってAにもBにも見える、というのがあるが、それと同じように恐怖と責任(自発的服従)は繰り返し反転する)がそれをさせるのだ。

旧約聖書の記述はただの宗教である、このような記述は日常とは無関係である、と見る向きもあるだろう。それに聖書の記述は別としても、かなり抽象度の高い認識ではある。だが、レヴィナスは、これを哲学化して、一般抽象的に通用する「責任」の原理ないしは構造として描く。

日常的な場面を考えてみよう。例えば、初めて誰かと顔を合わせるとき。私たちは時折その相手に「威圧感」を感じることはないだろうか。
引き合わされたばかりの私と相手には、それまで何らの面識もない。何らの繋がりもない。お互いがお互いをどうしようと、それはお互いの全くの自由な筈である。だが、時にどちらかが、或いは互いに、相手に対して「畏怖」を感じ、身を低くする。意図した訳でないのに、自ずと自分の行動を制約してしまう。人が他人に対する「責任」に拘束されるのは、そのような瞬間である。何らかの威力が、不意に、私を打つ。打たれた私は、合理的な思考を巡らす前に、既にその相手に従ってしまっているのだ。
レヴィナスはそれを<善>と呼ぶ。これは通常の意味で、所謂善悪判断の対象となる、そうしたレベル(<語られたこと>、言葉のレベル)の「善」ではない。それ以前的な、善悪の発生源、責任の発生源(言葉でなく現実の行為を規律するもの)としての<善>である。レヴィナスの言う<善>は、その定義上、全ての「内容」を免れている。「自ずと服従せざるを得ない」「気づいた時には自ら服従してしまっていた」、そうした構造が、全ての善悪道徳の終局的な根拠である。「無起源的な筋立て」、とどこかでレヴィナスは書いていた。

これは、暴力を全ての善悪の根拠におくもので野蛮だ、と見ることもできないわけではない。だが、理性(<語られたこと>)による善悪判断は相対的であり、また人がそれに従うも背くも事実上自由に行うことが可能であるのに対して、レヴィナスが描写するような根源的な「威力」により設立された「責任」は、どんな意思によっても破棄不可能である。勿論ためらいながら、怯えながら、その圧倒的な威力に対する「責任」を果たさないこともできるだろう。だがその際でも、「責任の忌避に先立つ逡巡、あるいは逆に、責任を忌避したあとで生じる悔恨」(p30)の内に、「責任を回避することの不可能性」(p30)が反映されている。


一見それこそ暴力的な議論であるのだが、実際のところこの議論の射程はかなり深い(というより、単なる理念論に逃れないで「責任」や善悪等について議論しようと思ったら、このようなレヴィナス的認識に至るしかない。それほど突き詰めた、痛烈な現実認識である)。例えば、国家により制定された「法」の遵守の最終的な根拠は、「国家」という圧倒的な威力に対するこのような畏怖に他ならない。勿論、現代国家はかなりの程度人民によりコントロールされているので、既にある程度「予測可能」なものになっていて、このレヴィナス的「責任」のパターンとは違っている(場合によって法が破られうるのはそのためである)。それに対して、国家の「圧倒的な威力」を間近で感じた人は、それに対する判断を加える間もなく、その威力に自発的に服従するだろう。それは善でも悪でもない。逆にその場所こそが、全ての善悪道徳の発生する場所である。

こうした議論を見ていて思い出すのは、やはりニーチェの議論である。「善悪の彼岸」や「道徳の系譜」の中で、ニーチェは道徳の発生源を、恐ろしい残酷さを持った金毛獣(野蛮人)によるものといったような言い方をしている。描き方こそ違えど(ニーチェは「神」の威力などは持ち出さないで、あくまでヨーロッパを荒らしまわった野蛮人(ゲルマン人)についての「歴史の記憶」のようなものとして話を進める。ニーチェのレトリックには「似非科学」色がどうしても抜けないので、記述している内容以前に文体だけで拒絶感を持つ人も多いようである)、指摘している事実はほぼ完全に共通のものである。
レヴィナスは「存在の彼方へ」の中でも、ニーチェの名にさりげなく言及している(「超越論的還元をおこなうには、こうした括弧入れだけで十分であろうか。十分ではない。そのためには、ニーチェの詩的エクリチュールのニヒリズムにまで至らなければならない。・・・言語を拒む哄笑にまで至らなければならないのだ」(p35)。「責任」等を説明するためには、<語られたこと>、言葉のレベルでの善悪を論じるよりも、それ以前的な実際の「威力」の方を見つけ出さなければならない、というような趣旨だろう)。同じ旧約聖書に重きを置いた思想家として、また師であるハイデガーの思想の根幹にもなった思想家として、レヴィナスにおけるニーチェの影響は割合大きかったのかもしれない。


散文(批評随筆小説等) 暴力と責任、若しくは<善悪の彼岸>−「存在の彼方へ」を読んでみる11 Copyright もぐもぐ 2004-08-07 13:07:29
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