単純な犯罪
木屋 亞万

その日私は熱を出し、かかりつけ医の待合室で
テレビに映るワイドショーをぼんやり眺めていた
来るまでの道すがら風に体温を奪われ
厚着をしてきたにも関わらず、身体は芯まで冷えてしまっていた
頭はニュースを受け付けず、キャスター同士のちょっとした談笑が
目に映ってくるだけで理解はできない、とにかく寒かった

部屋は暖房でとても温かく、上着の下のセーター辺りまで熱は届いてきたが
耳たぶ、鼻、手足、肋骨、背骨には寒さが凝り固まって残っていた
若い女性のキャスターが原稿を読む声がする
「今日未明、東京都渋谷区の路上で…」遠いところの話だ
「山下さん、こちらへどうぞ」看護師が呼ぶ
私は遠いところにいる、目を閉じて温風が胸に吹き込むのを待つ

ガラガラと引き戸の開く音がする
スリッパのペタペタかすかす歩く音がする
詰まっていない右の鼻の穴が石鹸の匂いを嗅ぎ取った
強烈な匂いだった、石鹸が診察に来たのだろうか
「保険証もお願いします」と受付は言う
石鹸は何も語らない、スリッパが再び歩く
石鹸もスリッパを履くのだろうか
隣に座ったのがソファの沈みと音でわかった
目を開き石鹸の正体を見ようかとも思ったが、やめた

隣に来ればなおさら匂いはきつくなる
数年前に使用していたボディーソープと同じ香りだ
このお方はもしかすると身体に泡をつけたまま流すのを忘れて
ここまで来たのではないだろうか、服はちゃんと忘れず着てきているのだろうか
かつて私も靴下を履いたまま風呂に入ったことがあるので
熱にうなされながら風呂に入り、ポカをやらかしたのなら決してわからない話ではない
熱がある時に風呂に入らないのはそういった失敗を避けるという意味もあるのだろう

このお方は男だろうか、女だろうか、それにしても匂いがきつい
鼻から侵入し、口の奥で苦いものを呼び集めるほどに強いにおいだ
首の真ん中に通っている脊髄が臭いにグラグラ揺らいでいる
耳鳴りもしてきた、口から首、胃にまで侵食していく石鹸臭
吐き気を催してきて、熱が後頭部にある絶壁の岩肌をガンガン叩く
右鼻も詰まれ、詰まってしまえと思いながら、口呼吸に切り替える
苦しい、息が、口で息をすればなお、酔ったように吐き気が襲う

看護師が私を呼ぶ声がする
「はい」と喉の先端を使って返事をした後、
重いまぶたをぐっと押し上げて、それでも半開きの眼を頼りに
大きくゆったりと息を吐きながら診察室の前へ歩いていく
視界の隅に純色の赤いコートが移りこんだ気がする
待合室を出るときにテレビの近くを通った
スタジオで語らうキャスターの一人がアップになっていた
「香水のつけすぎは、単純な犯罪ですよ」と男の笑うのが
離れていく待合室の中から背中に投げかけられてきた
私にはその男の声すら遠くに思えてならなかった


自由詩 単純な犯罪 Copyright 木屋 亞万 2008-11-22 00:41:35
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