楢山孝介


 書くことが多すぎて彼女は手帳を黒く塗り潰してしまっている。目の前で起きていることを記さなければならないという気持ちに突き動かされて、あるがままをあるがままに写し取ろうとし過ぎている。対象に目を奪われ続け、手許を見ることが出来ない。読むために書かれた文字がどんどん読めなくなっていく。誰かに見せるために書かれた文字が誰にも見せられなくなっていく。人の叫び声や爆弾の炸裂する音まで書き留めようとする。それらはあまりに多すぎる。繰り返し響き過ぎている。銃声が近づいてくると大きくなった音の分だけ大きく文字を記そうとする。ペンのインクが切れ、もはや紙をなぞっているだけなのに彼女は気づかず、痙攣するように腕を動かし続ける。彼女のものではない腕が傍らを飛んで行く。やがて記してきた悲劇と同じものが彼女を襲う。インクの代わりに血が紙に滲む。記すもののいなくなった手帳は彼女の体とともに爆風に舞い上がり、焼け焦げた様々なものと見分けがつかなくなってしまう。記すものがいなくなった後でも、爆音と銃声に人が掻き消される現実は続いていく。黒く塗り潰された下で言葉は埋もれていく。それでもまだペンを握る人がいる。書き記す人は現れる。


自由詩Copyright 楢山孝介 2008-11-15 12:34:50
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