パンクについて
捨て彦

僕はとてもパンクが好きだ。あまりにもパンクが好きなので、「今のパンクやなぁ!」って隣にいる人に言うこともしばしばで、いやぁ、ときおり思いがけないところにパンクを発見したりするんだけれども、と同時に世間では僕がパンクではないと思っているものが公然とパンクを気取っていてなんなんだそりゃと思うことがよくある。
隣にいる人に「今のパンクやなぁ!」と言ったときでも、たまにその人から「今のドコがパンクです?」と言われることがあって、そういわれると口下手な僕はその時はあまり考えが纏まらなくて、いや、えー、などと言いながら変な笑みを浮かべて機嫌を伺ってしまい、そのうちに相手が興味をなくして別の話題に走ってしまうという悲しい事態に陥ることもしばしばである。ですが、今は考えが纏まっているのでお話することができるのである。
そもそもパンクはニューヨークからー、と歴史の話よりも、体感の問題として、パンクのそもそもの定義をあえて作ってみるとしたら、それは既成の概念を破壊するという、ベタにいうと、創造のための破壊ってことだと思う。つまりパンクってのは停滞を嫌って、常に変化するってのがその本質であってすべてなんじゃないだろうか、いや、自分で言ってて、その本質であって〜とか、ベタすぎて言っててとても恥ずかしい気分になるんだけれども、だけども僕はその昔それがパンクと知らなかった小さいときの、初めてパンクに出会った瞬間からこのことを信じているし、その時に感じた最初の気持ちは今でも揺ぎ無いのだ。そしてそれが僕が物事を見るときのすべての基準にもなっている。
さきほどの、「今のドコがパンクです?」と言いやがった僕の尊厳を踏みにじったウスラトンカチがなぜそのようなことを言ったかというと、それはそもそも僕と彼との間にパンクの意味についての誤解があったからにほかならないわけで、多分彼はパンクって言われたときに、セックスピストルズ的な、スリーコードがなり弾き的な、体中にヘアピンつけーのカメラに向かって威圧的な格好しーの的な感じを持っていたんじゃないかしら。いわゆるステレオタイプの。んで、そのようなことを考えておられたら、僕の話が通じるわけがない。だって僕はたとえば笑い飯に向かって「こいつらパンクやなぁ!」と言ったり、島倉千代子のりんどう峠の歌を初めて聴いた時に発作的に「これパンクやなぁ!」と言っているからである。
僕がパンクを感じるとき、それはどういう時かというと、それは既存の概念を破壊して新しいものが生まれるのを感じるとき。従来の方法が、まったく関係のない明後日の方向から根本的に覆されているのを目の当たりにしたとき、僕はその生まれでたものにとてつもなく衝撃を受けるのであって、その衝撃を受けた気持ちがその衝動のまま吐き出されたとき「今のパ(ry」と言ってしまうのである。
さきほどのウスラトンカチのボケとの話がかみ合わなかったのは、ウスラあほたれが「パッケージとしてのパンク」を語っていたのに対して、僕はアチチュードとしてのパンクを語っていたからだ。そして、僕は本来パンクというものはアチチュードとして語るものだと思っている。
だから僕は音楽のみならずあらゆるものにパンクを見る。山本直樹にパンクを見るし、明和電機にパンクを見るし、橋本知事にパンクを見るし、隣にいるヤツの発言にもパンクを見るし、もちろん詩の中にだってパンクを見る。フォーラムの中でもパンクを見ることは多いし、僕はここで詩を見るときはいつもそうやって見ている。ファンシーだったり、ヌルかったりするものよりも、荒々しくて、どこか不安定で、とても刺激的で、そういうもののほうが僕はとても刺激されるし、何より面白い。そういう意味ではパンク好きってのはとても新しいもの好きでミーハーだったりする。



散文(批評随筆小説等) パンクについて Copyright 捨て彦 2008-11-14 07:05:32
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