ポエムのこと
白井明大
とりとめもなく書いてみようと思うのは、ポエムについて、ということは同時に詩について、ということです。
すこしだけふれておきたいのは、たまに、ポエムはだめで現代詩はいいとか、その逆とか、そうした話を耳にし、目にしますが、なにかの冗談なのだろうな、と感じ、ながめています。
ポエムというのは、poem、つまり詩です。それ以上でも以下でもありません。以上。
と書いてしまうと、とりとめとなくでもなんでもなくなってしまいますので、たんたんととりとめもなく続けてみます。
こんなやりとりが、私の日常ではたまにあります。
例
あるとき北海道へ取材をかねた旅行へ行ったところ、デザイナーの同行者が現地の新聞記者と名刺交換をすることになり、隣りに居合わせた私もとりあえずとあいさつの名刺交換をする。
私「どうも、白井です」
デザイナー「彼は詩人なんですよ」
記者「え・・あ、詩人、ですか・・」
こうした「・・」に含まれる複雑な重いあるいは軽い沈黙をどう受け止めるかによって、時に詩人は詩人ですと名乗ることにためらいをおぼえるのかもしれません。ですが、こうしたことは決して旅行先のイレギュラーなできごとではなく、日々隣り合わせなのだろうと思います。
例
あるとき神楽坂で飲み会をすることになり、その場で初顔合わせのカメラマンとやはり自己紹介し合うことになりました。
私「どうも、詩人の白井です」
カメラマン「ええっ、ワタシ詩人に会うのって生まれて初めてですよ」となぜかうれしそう。
では、と名刺交換すると、
カメラマン「ああっ!! 名刺に『詩人』って書いてない!」ととても残念そう。
私「すみません。次につくるときは『詩人』って刷りますから」と空約束をする。
前者の例は、軽い仕事がらみの名刺交換でしたが、後者はまったくの飲み会でした。こうした自己紹介に際して、こちらの身分をかるくふれる必要が生じることはままあるかと思いますが、「詩人です」と言うときには、ある程度、相手からふつうならぬテンションの反応がかえってくることがおうおうにしてあるようです。少なくとも私はそうでした。が、慣れてしまうもので、初めは緊張したり照れたりしていたのですが、いまでは時と場合により伝えたほうがよいだろうという席ではためらいなく言えるようになりました。これは、慣れでした。
ここでタッキーの、軽々しく詩人と名乗りなさい、とどこかで書いていたのを思い出しますが、彼がそうしたことをあえて書いたのも、こうした世間との接点で生じる摩擦抵抗があることをふまえてのことでしょう。
反対に、詩人ですと自称するなど恥ずかしい/まだまだ言えない/大それたことだ、といった考えを見聞きすることもあります。こちらは、世間に対してだけでなく、じぶん自身が詩人と呼ぶにふさわしいかという自問自答を抱えているように思えます。とこう書いてみて、先のタッキーのようなことばも、世間に対してだけでなく、自問自答する場合にもあえて詩人だと名乗り、自己に負荷をかけるのがよいのでは、といった内面的な意味合いを持っているのかもしれないと気づきます。
詩人です、詩を書いてます、というときの世間体的な抵抗感と、poemをポエムとカタカナ書きしてバカにする見方(というものがもしあるとしてですが、ままあるようですが)とは、同じではないにせよ、重なるところがありそうです。
とりとめもなくさらに書きますが、ですがやはり、ポエムはpoemであり、つまりは詩なので、ポエムをバカにするということは詩をバカにするということですから、それを、詩をバカにしている人がするのなら分かるのですが、詩をバカにしていない人がするというのはよく分かりません。
つまり、詩はバカにしないが、ポエムはバカにする、ということがよく飲み込めないのです。
そうした人は、詩のなかからポエムを取り分けて、これだけポエム、あとは詩、というふうにしているのでしょうか。ですが、詩の定義すらままならないのに、ポエムの定義ができるのでしょうか。私にはできません。
私はむしろ、ポエムはpoemであり、つまりは詩です。そのなかにはいろいろな詩があります。
というだけでよいような気がしています。
ですが、それでは気が済まない人がいるようです。
もっともふしぎなのは、ポエムと現代詩を、あたかも水と油のように言うことです。これは本当にふしぎです。
そうした人の話を直接聞くことはありませんが、間接的に見聞きすると、やはり、上述したように、なにかの冗談にちがいない、と思えておかしくなってしまいます。
現代舞踊はコンテンポラリーダンスです。現代美術はコンテンポラリーアートでしょうか。現代詩なら、コンテンポラリーポエムではないでしょうか、と思いましたら、コンテンポラリーポエトリーと称するようです。少し違います。
するともしかしたら、ポエムと現代詩とは違うのかもしれません。
ダンスのなかにコンテンポラリーダンスがあるように、アートのなかにコンテンポラリーアートがあるようには、ポエムのなかにコンテンポラリーポエトリーは入っていないのかもしれません。浅見のため、定かではありません。
なぜ、現代詩を愛する人のなかに、ポエムとは違うんだ、と言いたい人が現れるのでしょう。
それは、コンテンポラリーダンスに人生を捧げている人が、バレエとは違うんだ、と言う(たとえばピナ・バウシュ)のとはニュアンスが違うようです。
コンテンポラリーダンスは、ダンスの一つですが、バレエではありません。
という整理の仕方と同様に、
現代詩は、詩の一つですが、ポエムではありません。
といえるのか?という違和感があります。これは無理です。無理を通すために、そう言いたい人が、あたかも詩と別にポエムが存在する、とでも言おうとしているのではないでしょうか。違うのでしょうか。違うのかもしれません。本当に、詩とは別にポエムというジャンルが存在するのかもしれません。それは、バレエや、油彩画のように、確固たるジャンルなのかもしれません。
そろそろこの冗談のような散文も、しめくくったほうがよさそうです。冗談にしては中途半端ですし、批判にしてはゆるすぎますし、詩論にしては主張がはっきりしません。
ちゃんとした詩論につながることは、また機会をあらためて書きたく思いますが、ひとつ言えるのは、抒情を否定してはつまらないということです。また、批評精神を伴わない抒情はいけない、などという言説に惑わされないということです。批評精神は大事です。でも抒情も大事です。
どちらも大事にしていいのです。ですが、いまの現代詩でそういうことを言っている人は一部をのぞいてほとんどいません。それは、現代詩がいけないのではなくて、単にそうした点をふまえる人が少ないだけです。
現代詩であっても、抒情につっぱしっていいのです。
そして、抒情につっぱしったとき、それがあたかも、ポエムはだめと言う人がいかにも批判の的にしそうなポエム然とすることがあるかもしれません。ないかもしれません。それはどちらでもいいのです。それは大事なことではありません。
詩のなかにあたかもポエムというジャンルが存在するかのような口ぶりで、実は明確に定義をせずに、ポエムってこんな感じだよね、などと仮想敵化して、そこへ批判を向ける。それにひきかえ、これこれこういう詩はいいよね、というような、そうした話をする人は、実はじぶんが批判を向け、殺そうとしているのが、ポエムではなく、詩自体だということを自覚すべきです。
抒情につっぱしることはたしかに、時に危険がつきまといます。ですが、その危険を知り、あえて、その危険のなか、抒情につっぱしることが、詩なのです。現代の詩なのです。
とりとめもなく書くということなので、それがどうしてかは、詳述しませんが、わかりきった話でしょう。詩は批評精神から生まれるのではなく、書き手、この世にたった一人しかいない、とある書き手から生まれるものだからです。その書き手たった一人をよりどころにして生まれる詩とは、詩を書きたいと思う内面から生まれ出ます。
その内面を、谷川俊太郎の『定義』のように書いてもいいし、山之口貘の『思弁の苑』のように書いてもいいですし、ありったけの内面をふりしぼって、とにかく書けばいいのですし、てきとーに書いてもいいのですし、なんでもいいのですから、それが抒情をつっぱしらせることであってはいけない、などとする必要はないのです。
なぜこうも、よくわからないポエムなるものについて話すときに、抒情の話になるかというと、あまり叙事詩のことをポエムと言っている人に出会ったことがないからです。ポエムという人は、たいていは、少なくとも抒情詩の範疇にあるもののことをポエムと呼んでいるようだからです。
さて、とりとめもなくおわりにしますが、ポエム、つまりは
あんまり詩(poem)をいじめないでください。