霜の匂いを纏って
母さんのおさがりのコートを着て
毛玉だらけの手袋で
髪にはすこし粉雪をつけて
息はぼんやり白くて
頬ばかりが紅くて
お前
雪が好きなのに
寒がりで
上京なんて、ね
行きたいとは云わず
行きたくないとも云わず
最後まで決して云わず
冷えた指先をこすりあわせて
困ったように
笑う
*
風邪をひいたら 生姜湯
母さんの口ぐせで
俺が咳をするよりも早く気付いて
生姜を摺りおろして
父さんはいつも黙って飲んで
そういえばお前はおかわりまでして
母さんは生姜が苦手だからその分飲みなさいと、云って
台所で生姜をひたすら摺って
その揺れる背中はちいさくて
あたしはここにいなくちゃ、ね
おとうさんは好き嫌いがはげしいから
あたしがご飯作ってあげなくちゃ
それに兄さんは寂しがりだから
ね、おかあさん
手を合わせるお前はやっぱり頬が紅くて
母さんの十回忌がきたけど親父はいつものとおり墓前に行かず
例年通り雨がどこかで雪にかわって
俺はやっぱり黙ってて
すべては相変わらずのままで
*
風邪をひいたら 生姜湯
いつしかお前の口ぐせで
いつもすぐに治って
それが普通で
だからあの冬もいつまでも生姜湯を飲んで
冷たい台所でかじかんだ真っ赤な指が
寒がりな指がふるえて
生姜を摺りおろして
ちいさい背中を揺らして
かごいっぱいにあった生姜がなくなる頃に
その日も朝に生姜湯を飲んで
昼飯に飲んで
夜に飲む前に
しずかに死んだ
妻の十一回忌にも娘の一回忌にも親父はいつものとおり墓前に行かず
母さんに手を合わせるお前はもういなくて
例年通り雨がどこかで雪にかわって
俺はやっぱり黙ってて
すべては音もなくつもって
*
二十年飲んできて初めて生姜湯を作った
手がかじかんで
おろし金で指を切って
ちいさな背中をとりとめもなく思い出して
どうしようもなく
痛くて
むちゃくちゃに砂糖を入れて
苦いのも辛いのも もうたくさんだから
水あめよりも
甘い生姜湯を供えた
*
(泥にまみれた生姜
流し台ではねる凍てた水しぶき
血がふきだしそうに紅い掌
台所の窓はいつも北風が雪と吹き込んで
ちいさな背中は
いつもそこに)
母さんは
お前は
何を考えて
そこに立って
どんな顔して
背中をゆらして
なあ
教えてくれよ
どんな想いで
*
まずいな、
余った生姜湯を親父に渡したら
翌朝に一言もらして
目元がすこし腫れていて
母さんやあいつと比べるなよ、
俺がそう云うと
親父は口元を歪ませて笑ったような顔をした
実は母さんは生姜が好きだったこと
本当は父さんは生姜が嫌いだったこと
お前が本当は東京の大学に合格していたこと
誰も何も知らず
湯気みたいにうやむやに脆くて おだやかで
*
霜の匂いを纏って
母さんのおさがりのコートを着て
毛玉だらけの手袋で
髪にはすこし粉雪をつけて
息はぼんやり白くて
頬ばかりが紅くて
兄さん、
と呼ぶ声が
冷えた指先から俺のなかに。