ナイフ
ホロウ・シカエルボク





吐こうとした言葉はすべて懐に隠して、手元で何度となく弄んできたようなものばかりを並べて、それを予防線と呼ぶことにしてなんだか満足した、申し訳なさを匂わせるみたいに段階的に光度を落としてゆく寒々しい世界は、叶うことよりは叶わないことを受け入れて生きるべきなのだと決意しているようで、それは部屋の中から傍観する分にはやたらといらつきを募らせる種類の静粛だった、先ごろ販売が中止されたナイフを手に取って私は爪を研いでいた―いつからそんな風にしていたのかは今では思い出せない、私の父はナイフが好きだった、彼の書斎の引き出しには数えきれないほどのナイフがずらりと向きを並べていて、刃を覆い隠す黒や茶色の皮の鈍い光り具合に、それが何人もの人間を殺すことが出来るのだという認識早い時期から私は持っていた…実を言うとこのナイフはその父のナイフなのだ、家を飛び出すときに何本かを鞄に忍ばせて持ってきていた、父が嫌いだったのではない、私はナイフが好きだっただけだ―何の話をしていた?そう、爪を研ぐ話だ
父は私が書斎に近づくことを決して許さなかった、当然のことだ…だけど私はそれがなぜなのかちゃんと分っていたし、父の裏をかくことはいくらでも出来たから表向きは興味の無いふりをしていた―興味がない、そういう態度さえきちんと見せておけばたいていのことはうまく運べるものなのだ―そんな風にして父は長いこと私に騙されていた、私は小学校に出かけては少し早く家に帰り、避妊具なんかが(その時は何に使うものなのかまったく分からなかったけど)隠されている寝室の小部屋の引出しから書斎の鍵を取り、書斎でナイフを持ちその輝きにうっとりと溶けていたものだった…ある時、ある時だ…それがいつ頃のことだったのかは先に書いた通りはっきりとは思いだせない、その時の記憶はある意味で時間を超越した状態で私の胸のうちに存在している―私はその曇りの無い刃先で自らを傷つけてみたくなった、だけど身体に傷をつけて、父や母によからぬ疑いを抱かせたり、ナイフに触れたことを父に気づかれるのは絶対に嫌だった、だから慎重に爪を研いだのだ…父の部屋のティッシュを一枚抜き取って、机の上で少しずつ…時折指先に触れるぞくりとする冷たさに、私はうっとりとなった、その快感が増せば増すほど、これは絶対に誰にも気づかれてはならないことだ、という理性も極端に強くなった…その日から家を出るまで、両親にその行為が見つかることは一度も無かった、そもそも父は私が書斎に入ったことなどないと信じていたし、父の机の引き出しに何が入っているか私に分かるはずもないとそう信じていた、時々ナイフの刃先を調べて、おかしいなと思うことはあったかもしれない、だけどそれが私のせいだなんて到底考えることは無かっただろう―爪を研ぎながら父親のことを思い出すのは久しぶりだった―彼の葬式が終わってから何年が過ぎたのだろう?母親は今でも可哀想な未亡人の役にどっぷり浸かっているのだろうか?おかしなものだ、父が死んだとたんに彼女は貞淑な女になった…父親との人生は幸せなものだったと、一日の内に何度も遠い眼をしてはそんなことを口にした、父親がそれについて何事か意見を述べることが出来たとしたらいったい何と言うだろう?と私は考える―少なくともそれは母親の意見と一致することは決してないであろう―爪を研ぎ終わり、ナイフを皮のホルダーにしまう、とたんにそれがぬくもりを持つように見えるのは、私の勝手な感覚であってナイフのせいではない…私だって本当は安堵し続ける毎日に焦がれているに決まっているのだ…覆われたナイフ、そこには視覚的な凶暴さはもう見受けられない、でもだからこそ、という新しい存在感が窺える、覆われたナイフ、私は整った指先をゆっくりなぞりながら薄く笑う



お父さん、このナイフのこと、好きだったんだよね、いちばん。





自由詩 ナイフ Copyright ホロウ・シカエルボク 2008-11-02 15:38:43
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