ふりかえりふりかえり
白井明大
『三好達治詩集』を買ってみました。
瀬尾育生『戦争詩論』で引用されていた詩がよくて、気になっていたので。
ことばがきれいだなと、さらっと読んで感じました。
たとえばいまこれを合評会で出したら、つっこまれどころ満載かもしれないな、とも思いました。
それでもやはり、ことばがきれいで、詩として人を惹き込む魅力があることには変わりないのだなということも。
きれいだと感じる詩は、たとえばこうしたものです。
「あられふりける 一」
ゆくすゑをなににまかせて
かかるひのひとひをたへむ
いのちさへをしからなくに
うらやまのはやしにいれば
もののはにあられふりける
はらはらとあられふりける
(三好達治『艸千里』所収)
抒情詩といってもさまざまあることがわかります。
いのちさへおしからなくに
この詩を収めた詩集が昭和14年に出されていること、また戦中に三好達治が戦争詩を書いたことのほうに引きつけて読もうとすれば、あやうさを指摘することも可能かもしれません。が、しばしそこから切り離して、「かかるひのひとひをたへむ」の背景にある事情が何かを推量することも抜きにして、あらためてこの詩を読むとき、一連二連でこらえてきている書き手の心情の昂りが「あられふりける」の反復で放たれている、そのさまに感じるものがあります。
この最終連にちりばめてあることばを「もののあはれ」と見てとることもできそうですし、そうした視覚的効果をねらっていたのでは、とも思えます。
ここで詩を仕上げてしまうことで、ある抒情を個人の内におくかわりに、他者と共有できるのだとする、公約数的な抒情を下地に敷いているかのような手つきを感じないこともないのですが、それはやはり、いま合評会をしたときに出るであろうつっこみどころであり、それ以上ではないのでしょう。
三好達治の詩から学べることが多々あるのを感じます。
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また、正岡子規の俳句が気になっています。「写生」ということをつきつめて、どこに行き着いたのでしょう。
鶏頭の十四五本もありぬべし
斎藤茂吉が賛意を示し、高浜虚子は否定したそうです。
ぼくは好きです。
なんてことないものがすきなのです。
たとえば正岡子規のこんな俳句もすきです。
つらなりていくつも丸し雪の岡
(寒山落木 巻四)
ひらがなからたらたらとはじまって、書いてある情景も、雪で丸くなった岡がいくつもあるよ、とそれだけのことというのに惹かれます。
ぼーっとみているような句のまなざしに、こちらもぼーっとしてる間に同化してしまいます。