ネットと作品
ふるる
ネットから生まれたいわゆる「作品」の価値と可能性について「共同体意識」という観点から考えてみた。
掲示板(主にネット内)というのは「読者であり作者である」ことが可能な世界である。(ネットの掲示板での不特定多数の書き込みを本にまとめた「電車男」が好例だが、現実の掲示板に貼りだされたものをまとめた「生協の白石さん」などもある)その世界では、「オリジナル」「著作権」「消費者としての読者」「提供者としての作者」という権利や上下関係や境界があいまいである。数百万部という販売数で出版界を驚かせている携帯小説においても、「読者がいたからこその空気感、一体感が作者の支えになっている。」(1)「『魔法のiらんど』(携帯小説の投稿サイト)などで連載している作品は、読み手も一緒になって育てていく気持ちがある。だから、書籍化されると買うんです。」(2)とある。ネットでなくても作者へのファンレターやサイン会などで作者は励まされるのだが、それは作品が発表された後のことで、リアルタイムで作者と読者のコミュニケーションが進行し、その中から作品が生まれてくるわけではない。ネット内での作者と読者の密度が濃い中で生まれた作品は、言ってみれば読者と作者とのコミュニケーションの「産物」なのである。(3)一方、もはや日本語として定着した感のある「萌え」については、ネットのデータベースなしには普及しえなかったものだと、「動物化するポストモダン」(4)では分析する。「萌え」というキーワードにより蓄積されたデータは日々更新され、「オタク」たちに共有されることによって広まり、描く側は「萌え要素」を切り貼りして(それがどんなキャラクターで、どんな設定で、という物語を背負わずとも)「萌えキャラ」を描き、受け入れてもらうことができるのである。
このようにコミュニケーションやデータベースを元にした作品の場合、「元となった作品」や「作者の作りつつあるもの」を「誰かが持ってきたモチ米」だとすると、「オリジナル」や「著作権」のような個人的権利への意識は薄く(無論、多くの労力を割いている作者に敬意は払ってはいるが)、「誰かが持ち寄ったモチ米を皆でこねておいしく食べるのだ」という、共同体意識の方がより強いと思われる。
ネットから生まれた作品について、作者と読者と作品がどのような関係か、ネット内コミュニケーションという双方向性による産物か、データベースから生まれたコラージュか、二次創作か、あるいはそのミックスか、ということも、その作品を見る上での重要なポイントであると思う。物によっては一見「クオリティが低い」「どこかで同じようなものを見た気がする」「閉じられた中でしか通じない」「従来の価値観では大して価値はない」と思える作品の中に、「共同体意識」という見えざる価値(参加している人間にとっての価値であるが、参加者数ははかり知れない)が潜んでいるのではないだろうか。その「共同体意識」は従来のムラ社会、タテ社会や同世代同士の連帯感とは違い、束縛がないかわりに絆も薄く、伝統や文化の維持継承などは期待できない一過性のものであるかもしれない。しかし一方では、もはや世代や場所で繋がるチャンスを失った人々が、周囲とのコミュニケーション方法や労働や生活環境に抑圧や不安を抱える世の中にあって、「困難な現実を生きている」というキーワードで繋がり、「刹那だからこその強い結びつき」を過程としてのコミュニケーションや結果としての作品を目の前にして、体感しているのではないだろうか。その中から、今や多様になった価値観、それに伴い多様になった現実、という難しさの中で生きる方法や、文化として受け継がれていくような作品なり価値観なりが生まれる可能性は期待していいような気がするし、期待したいし、できれば自分も参加し、その経過を見届けてみたいものである。
参考図書
(1)「ケータイ小説活字革命論 新世代へのマーケティング術」 伊藤寿朗著 角川ssコミュニケーションズ 2008 p134
(2)「ケータイ小説のリアル」杉浦由美子著 中央公論新社 2008 p173
(3)「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」(東浩之著 講談社現代新書2007)においては、「コンテンツ志向メディア(TVやラジオなどの従来のメディア)は、ひとつのパッケージをひとつの物語で占有し、それを受容者に伝達する。コミュニケーション志向メディア(インターネット)は、ひとつのパッケージあるいはプラットフォームのうえで、まずコミュニケーションを組織し、その副産物として複数の物語を産み落とす。」とある。これはその時点での著者の見解であり、自分も今の時点ではそのような印象を持っているが、今後はそれらの境はあいまいなものになっていくのかもしれない
(4)「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」東浩之著 講談社 2001