なんにもみえない先の詩の道
白井明大
夏までのあいだに、吐き出すだけ吐き出そうと思って、さまざまな詩にまつわるものをつくった。
そして、現状、いまじぶんがいるところが、丸裸になるようにしたのが夏でした。
丸裸になってしまえば、いま立っているところから先がなにもみえないこと、みえていないことが、はっきりとわかります。いまもその状態に変化はありません。
ここから先は、どうやらあるようです。
貞久秀紀さんは、向こうっかたへ、行かれています。
昨日の詩の合評会PSPクラブで、竹内敏喜さんとそんな話をしました。
「木橋」という貞久さんの詩(あたらしくできた詩の雑誌「びーぐる」創刊号(発行:澪標)に掲載)は、江代充さんの到達しているより先に行ったのではと、そんな話です。
先は、あるのです。
その先へどう行ってよいやら、わからないのがいま、という。。おーのー
わたしからみて、モダニズム/前衛の手法によって立つ種類の現代詩は、近代詩とおなじく歴史上のものに映っています。すでに、それは、もうすっかり。
モダニズム/前衛の手法で、今後も、日本語の詩になにかこれまでにないものをもたらすということはできると思います。
ですが、それは、近代詩の手法をいま用いても可能です。
そこまではもうすっかり整理がついている話なわけですが、そこから外れるとどうでしょう?
わたしはわたしの道を行きたいです。行こうと思っています。
辻征夫さんが最終的に立った詩論の場所、つい先日、若い詩の書き手に向けられた松下育男さんのことばに表された詩論、このふたつは、ふまえておくべきことのように思います。
べつだん、あたらしいことではないのかもしれません。ただ、いままでことばにしてはっきりとそれを打ち出して語られたことは少なかったような印象がある考え方だと思います。
そうしたかたがたの詩論があるうえで、さらに考えるのは、貞久さんがいまみているものはなんだろう、という。
あの人のぽつぽつ歩いてらっしゃる、想像を絶するある感覚の世界に、手をのばすことをしたいです。
辻さん、松下さんのような、こちらにわかりやすく説くようにおっしゃっている話までなら、ついていくことは可能です。どうにかこうにか。すべてではないにせよ。そのためにおふたりは、語ってくれているわけですし。
でも
その先は
どこから手をつけてよいやら、
わからないまま立ちぼうけです。
立ちぼうけの、だぶんだぶんです。
この秋冬に、詩がいっこも書けなくても、いまの場所よりかいくぶん、何歩か、行っていたいと思います。
詩のことを考えています。