そろそろとみえない糸をたぐりたぐり
白井明大

 詩について少し少し考えていこうと思う。

 これが詩だ、と思われるようなことばのありようが、たとえばなにかどうか書こうとするとき、じぶんの内から浮かんでくるのではなくて、ことばのするすると勝手で自由な動きによるのでもなくて、ただ、まえもって知っていたような、どこかで見聞きしたような、そんなありようとしてよぎりくるときがあり、それが既存の詩型であるときも、またそうでないときもあろうかと思うが、よぎりきたありように沿うように書くのも、それから離れて、じぶんの内面にあらためて焦点をあてて、詩こころ/ポエジー/詩性などとよばれるものが内にあるかを手さぐりながら、手さぐる先のそのものとことばが呼応することを求めるような、そうしたことばのありようを探ることもまたできるだろうし、あるいは、ただことばの勝手な動き、ことば自体にそなわる不思議ともいいたくなる動きように委ねて書きすすめるようなこともできるだろう。

 そうしたどれもが楽しく、詩を書く楽しみとしてあることと思うが、それらのことばのありようは、かならずしもきっぱりと線引きできるようなものでなく、書いていて感じ、感じて書いていくなかでの、書き手のゆれうごきだというくらいに捉えておくことに、よりことばのふくらみようや、書き手の内面の自在な生まれ表れように期待できるのではと思えたり、そうかといって、まったく線引きできないわけではないだろうとして、自身の内面をことさらにみつめたいときそちらへ傾いたり、ことばに委ねたいとそうしたり、既存の詩型であれそうでないなにかであれ、どこかで見知ったようなと思えるような、いわば借り物のようなことばのありように沿ったり、そのときそのときにこうしたいああしたいとして書いていられたらと思う、あらかじめこうと決めるのでなく。

(付記)
 既存の詩型に沿う書き方*1というものは、自由詩を内在律によって立たせようとする考えからみれば、どうなのかと思える面があるのか、という問いには、そうしたことは気にしないでいいのではと思う。定型ではないが、自由詩はなんらかの、期待されるかたち*2、をもつのかどうかという話はおもしろく感じられる。

*1そうした書き方は、定型が自由をもたらす、という物言いと似たところに、自由さやおもしろさがあるのではないかと思えて、それらはまだ、内在律として説明される自由詩のなかに、明確な位置どりがなされていないものなのかどうなのか、という関心がまた生まれてもくる。このことは、実際の詩作をつうじて、まずはどうなのかを自身で感じられたらと思う。

*2既存の詩型という言い方がおおくくりでいけないのかもしれないが、定型というものがないことを始点にし、なお定型がないのに詩型はあるとでも言いたくなることばのありようを想起できるとしたら、それはそれでおもしろいことだと思え、ひるがえって自由詩に、どうあればどうなるといった、ゆるやかな型のようなものが、あるいは「読み手の側の蓄積によって、こういうものが詩であろうかとする読み手の期待の延長上に定型性が立ち現れてくる」といった可能性がかたちを帯びたようなものが、生まれているのかどうかといった関心に派生していくのなら、なお面白いように感じる。


散文(批評随筆小説等) そろそろとみえない糸をたぐりたぐり Copyright 白井明大 2008-10-23 01:05:03
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