彼女はそうは思わない
ブライアン
記憶にある顔は、少し老けたようだった。変わらないといえば変わらないのだろう。彼女は自分の子供を抱き上げる。夫と子供と3人で暮らしている、と彼女は言った。部屋は決して大きくはなった。むしろ3人では狭く感じるのではないだろうか。彼女は抱き上げた子供を床に置く。わずかな沈黙を挟みながら、ポツポツと会話は続けられた。まだ何も話すことのできない子供を見つめ、手を握りながら。その手は温かかった。とても小さかった。窓から陽の光が差し込んでくる。その陽射しもまた、温かかった。春を迎えようとしているのだろう。外には風が吹いているのだろうか。彼女は立ち上がって、窓を開ける。少しだけ風は吹いていた。それを確かめると、窓を閉める。カーテンも閉めた。母親を追う子供の焦点は、定まることはなかった。忙しく、あちらこちらへと移動していた。彼女は、薄暗い台所へ向かう。
忘れていく。風化してしまう。過去へ連れ戻される記憶は、もう記憶ですらないのだろう。彼女が流した涙の意味も、今では理解することなど出来ない。彼女は台所から戻ってくる。二つの湯飲み茶碗をもっていた。冷たいお茶が入れられている。子供は、母親の足音に耳を澄ましていたのだろうか。定まらない焦点が突然止まる。すべてを忘れるわけにはいかない、と彼女は笑った。私はそうは思わない、と。荒廃した記憶を再び積み上げるようにして、差し出された湯のみ茶碗を手に取る。忘れた振りをしていたのだろうか。そうやって、ここへやってきたのだろうか。春はまだやってきていない。まもなくだ。山に囲まれたこの土地で、雪に包まれながら彼女のことを思った。春など一生来ないのだ、とそう思った過去がよみがえる。忘れるには充分な時間だったのだろうか。彼女は変わらなかった。子供の手がたたみを叩いていた。体を動かそうとしている。私はそうは思わない、と彼女は続ける。後悔しか残らないなんて事はないだろうし、あまりにも幸せなんだから、と言って、子供を見た。陽が傾き始めていた。彼女の部屋から出る。山に囲まれた土地。今、春が来ていた。地に点在する雪が、少しずつ溶ける。地下へ潜る。春は雪を忘れてしまうのだろう。この地から雪を奪って。私はそうは思わない、と彼女の声が残る。次第に闇に包まれていく土地。今まであった温かさが失われていく。バスを待っていた。透明な闇に向かって、通り過ぎる車を眺めた。アスファルトの上、感じていた。