砂の女の楽譜
《81》柴田望

神秘的な病だこれは
外界からの様々な抗原
防御するバリアー機能の低下
のみならず
IgE抗体の過剰産生により
じぶんを傷つける
新しい湿疹と結節が
じぐじぐと鮮血噴き出し
乾燥した翌日には
表面が白い粉を吹く
いずれも激しい痒みを誘い
耐え切れずきみは掻くのだ
無意識のうちに
じぶんを傷つける
掻いても掻いても
砂はじりじり家屋へ迫る

この病がきみにもたらされるように
きみを呪った犯人を
ぼくは知っている
身近にいてきみに嫉妬する
あいつだ、と思う
あいつはだれをも呪うので
実際のところだれからも疎まれているのだが
きみはあいつをだれよりも理解しているので
絶対にあいつを呪ったりしない
わたしだけ、が不幸
わたしだけ、が可愛そう の
わたしだけ、に
あなただけ、じゃないわ

わたしもよ、を足し算するのは
きみだけだ
あいつが撒き散らす砂が
あいつの肺に溜まるのを
きみは防ぎたくて
じぶんを傷つける

きみの素晴らしい病が
だれにでも分け隔てせず
あいつに対する優しさを
発熱し炎症を起こす
ぼくには真似できない
この街の菓子屋で売られる
すべてのパイ生地は掻くたび
ぼろぼろと床に溜まる
腐りきって乾燥した皮膚の細かな破片であり
内包されたりんごジャムは
アトピー性皮膚炎の患部に
痒みを促すにがい血だ
ある孤独者の奥底から
なだれ落ちる陰謀のせいで
目のまわりや口元の赤く腫れあがった結節が
キモいという理由で
きみが某製菓会社の職を追われたから
ぼくは消費期限偽装の
証拠を掴んではいるが
どうかわたしだけとは思わないで、と
きみは言うのだ
引き算は
きみの望むところではない

ただ、普段通り
元同僚の わたしだけ、に
これで一緒ね、を足す
なんて美しい病だこれは

アレルゲンだらけの生地の粉に
皮膚呼吸を腐食された
従業員たちをきみは気づかう
自ら引き寄せた罠に陥り
何度も脱出を試みた男が
立ち去らなかったとき
自らが必要としていた罠であったと
自覚していたかどうかはともかく
脱出には注目していなかったように
ぼくだけ、 でも
わたしだけ、でもない
たった一人の だれかだけ、じゃない
訴えてはならない
あいつを殺そうとするかぎり
あいつとはぼくであり
あいつ同様
きみや
じぶんを傷つける

隣接諸国に恥じぬだけの
注目の対象をわが国が得るために
マスメディアはきみを見習うがいい
だれかだけ、じゃなくて
わたしも、
あなたも、

きっと
みんなも、

きみが無限に見せる一度きりの表情
ぼくら夫婦に足し算がもたらされた
砂の女よ
産まれてきた子どもはだれよりも
きみに似てほしいと思う
すべての足し算がボルツァーノの
実無限概念を証明する

枯れ木で書いた 音符 を
さらっていく 波 の一滴や一粒の 砂 も
無限の 音色情報 を持つので
完璧な 再現 などできない
宇宙が無限の 《 一度きり 》 で
満たされていると悟るとき
録音 に意味などない
証拠 はいらない
すでに 確か だ
この曲は録音されてはならない




初出『砂の女』 08年7月発行 柴田望


自由詩 砂の女の楽譜 Copyright 《81》柴田望 2008-10-09 21:12:15
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