共感と反駁と
西日 茜

sadame『可逆』 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=167904

 この詩は、紙の可逆性を見た作者が、変化した自分の頭蓋骨の中身が果たしてこのように元通りになり得るか、という一瞬の心象風景から始まる。自らを不可逆的であるという作者。ふかした煙草の煙が常に変化して元の形状を保つことがない様子を自己にたとえる。そして「既存の雰囲気に同化して 戻らない そのような もので あるらしい」と締めくくる。sadameさんの詩は、いつも自己憐憫の様相を呈している。自らの失敗をさらけ出し、誰を恨むわけでもない。また、小さなものや弱きものへの憧憬を繊細に描き、人間や動植物への愛情を豊かに描き上げる。

 私は常々、現代詩フォーラムにおいて他者の作品に影響を受けている。ここに投稿される作品の数々は、思いもよらぬ部分から発信され、着地し、様々な色の花を咲かせ、花壇はいつもにぎわっている。私はこの架空の楽園で遊ぶことができる。しかし、感性を刺激され切磋琢磨される一方で、他者批判やセックスの言葉を少しだけ並べ替えて表現される一部の作品は、言葉の暴力や内面の過激な発露のようで不快感を覚える。読後の不愉快は不本意な記憶として残り、要らないものを受け取ってしまったような後悔で気持ちが悪くなる。しかし、その作者が他の作品において個性的な表現をしているのを読めば、むしろこれも一部のスタイルとして書き上げた作品なのだと分別できるのだ。

 虚構として豊かな情感をもたらす文学作品はもっとも創造的である。現実と異なる空間の詩学だ。詩作は、混沌とした記憶を単に詰め込むような普遍的イメージで描くのが良いというならば、その観念は作者によって逆転されなければならない。なぜならば、詩を読む者のイメージは特異な詩的空間へと侵入し、さらに内部へ集中した時に体験する内部と外部の弁証法として、「作者の世界」を柔軟に感じ取るからである。そして優れた作品は様々な感性によって客観的に評価されなければならない。

 過去の作品や受賞作に見る手法に自己を重ねてしまうのは共感という誰もが経験する心の作用だ。しかしその呪縛から解き放たれたとき、「詩とは」などという囚われから自由になり、自己の作品が独り歩きする。イメージは内部にある。外部から刺激を受けて生まれる自らの言葉に耳を傾けよう。それは他でもない、自分自身だ。可逆性を楽しむことができたらすばらしい。しかし不可逆的であることもまたすばらしい。お金は要らない。場所も選ばない。自分で形を自由に変えられることの楽しみを言葉の世界で見つけられたなら、それを伝えようと努力するのだ。こんなに手軽な遊びは他には無いだろう。遊びなどと言って怒る人がいたら申し訳ない。


散文(批評随筆小説等) 共感と反駁と Copyright 西日 茜 2008-10-09 00:39:48
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