「割り切れなさ」と懐疑論−「存在の彼方へ」を読んでみる6
もぐもぐ


弱肉強食であり、利害計算である「存在」(生)。レヴィナスはそれとは「別のあり方」(「存在の彼方」)を捜し求める。「それにしても、存在とは他なるものとは一体いかなるものなのか」(p20)。

とりあえずそれをブランクにしたままに、先に方法論の問題として、「言語」について論じられてきた(<語ること>と<語られたこと>。「存在とは別の仕方でを言表する語ることは、語られたことによって支配されているのだ。この事態は方法論に関する問題を提起している」(p30))。

レヴィナスの方法論的な着眼は、
「<語ること>の自己背信を代償として、全ては現出する。語りえないものさえが現出する。だからこそ、語りえないものを洩らすことも可能となるのだが、語りえないものの秘密を漏洩すること、おそらくはそれが哲学の使命に他ならない。」(p31)
というものである。この例として、レヴィナスは「懐疑論」を挙げる。
「懐疑論はおそれることなく言表の不可能性を肯定する。言表が不可能であることそれ自体を言表することによって、懐疑論は大胆にも言表の不可能性を実現するのだ。」(p32)

「懐疑論」とは、大雑把には、「真理を言うことは出来ない」という命題を主張する立場であると言えるだろう。これは論理上自己矛盾だとして、度々批判されてきた(「真理を言うことは出来ない」という命題を、「真理」として「言って」いるではないか、自己矛盾だ、と)。
しかし、論理上おかしいと言っても、現に懐疑論のような命題を立てることは可能であり、それを支持するものも居るわけである。これはどうしたことなのか。
「論理上」というのは、<語られたこと>のレベル、つまり、発言内容のレベルで、ということである。ところが、現実のコミュニケーションにおいては、例えば「言外の意味」のようなものがあり、「文字通りの発言内容」と、それによって相手に伝えられることとは、必ずしも一致しない。
「懐疑論」が引き起こす問題は、何よりもまず、この「言外の意味」が持つ「ずれ」の問題である。

「発言内容」と「言外の意味」はずれている。「言外の意味」は、「発言内容」に矛盾している。


これが「存在の彼方」の探求と一体どのように関係するのだろうか。
哲学のフィールドでは、恐らく話は簡単なのだろう。「真理」=「言語」=「存在」という方程式は、ヘーゲルやハイデガーを見るまでもなく、伝統的な哲学の図式として認められてきた。従って、「存在とは別のあり方」の探求は、「言語」上の「真理」とは「別のあり方」を探求することと密接に結びつくはずである。「言外の意味」は、言語上の真理からの「逸脱」であって、このような「逸脱」は、「存在」からの「逸脱」についても同様に関係してくるはずである。

しかし、私のような非哲学徒には、そのような図式を当然のものとして前提にされても、あまり納得できるものではない。もう少し遡ってその繋がりを確かめなければ、この展開にはついていくことができない。

「存在」という語は、西欧語ではbe動詞等、丁度日本語の「〜である」という語に対応するものである。と同時に、シェークスピアのto be, or not to beの語にあるように、「生」「生きること」をも意味する語である。この両義性が、恐らく「存在」という語が西洋哲学において持ってきた主導的な役割に繋がっているものと思われる。
しかし、日本語で考えている私は、そこに幾つかの媒介項を挿入しなければ、簡単に「〜である」という語と、「生」「生きること」を結びつけて考えることはできない。

「〜である」というのは「断定」である。断定というのは、ある人の、他の何らかの物事に関する、確信ある認識である。

ここで、ハイデガーが言うように、人はその「関心」から他の物事を見つめる。それは究極的には「(自分の)役に立つかどうか」という観点から物事を眺めているということである。「〜である」という「断定」も、このような「関心」に導かれて規定されてくるものである。

「〜である」という「断定」には、(「私の役に立つか」という)私の「利害」が反映されている。
私の「利害」とは、究極的には私の「生死」である。
全ての物事は、私の「生死」の観点から認識されている(ニーチェの言う「遠近法主義」)。

レヴィナスは、このような「生死」の観点を、「超越」しようとする。

「超越」はどこにあるか。
これは生死の観点そのものの見直しの中から探り出していくしかない。その際誤ってはならないのは、「生死」について見直すということではないということである。実際に生死する私が、自分の利害を離れて生死について論じられる筈がない。見直すべきは「観点」の方である。「観点」とは何か。それは「誰」ということである。では、その「誰」とは、一体「誰」なのか。
(遠近法というのは、ある「観点」から見つめた世界を描写する方法である。その見つめている主体は一体「誰」なのか。それは常に「私」である。だが、「私」とは、果たして「誰(何者)」なのか。)

「懐疑論」からぼんやりと浮かびあがってくるのは、この「誰」の問題である。懐疑論を述べる者は論理上の自己矛盾(i.e.「私は『真理は言うことが出来ない』という真理を言う」)をする。だが、この「自己矛盾」しているところの「自己」とは、一体「誰」なのか。
(よくよく観察すれば、「私は『真理は言うことが出来ない』という真理を言う」という文(A)には、形式論理上は何らの矛盾もない。矛盾があるといえるのは、「私は『私は真理を言うことが出来ない』という真理を言う」(B)という、所謂クレタ人のパラドックスの場合である。それにもかかわらず、多くの人は、「私は『真理は言うことが出来ない』という真理を言う」(A)という最初の方の文にも「自己矛盾」を感じる。ここで感じ取られている「自己」とは、いったい誰なのか。)

レヴィナスは、懐疑論のようなものに言及することで、「言外の意味」として浮かび上がってくる「誰」、矛盾的な「自己」について検討しようとしている。

私の理解は以上のようなものである。


非常に曖昧で、厄介な議論だと感じられる。

「〜である」という「断定」は、私の「生死」という「利害」を反映したものである。
この「生死という利害」(=「存在」)とは別のあり方(=「超越」「存在の彼方」)を見つけ出すためには、「私」というものについての再検討が避けられない。
しかし、どんな意見を言っても、それを「断定」と捉えてしまえば、全ては「あなたの勝手な意見、あなたが自分の利害から言っているだけ」ということになり、簡単に無視されてしまうことになる。
レヴィナスは「あなたの意見」という語で割り切ることの出来ない剰余を探す。それは上に示した「懐疑論」の中に見つけることが出来る。「私は『真理は言うことが出来ない』という真理を言う」(A)という言明は、(Bと違って)形式論理上は矛盾していないのに、それにもかかわらず「自己矛盾だ」と感じられる。この割り切れなさは何なのか。割り切れていないのは、「あなた」の方なのか、それとも「私」の方なのか。割り切れていないのは、一体「誰」なのか。

随分と観念的な議論であるようにも感じられるが、実はこれは実生活上も繰り返し経験されるところの疑問である。

「私」とは一体誰なのか。「私の意見」は何処からきたのか。「私のオリジナルな意見、私だけの意見」そんなものはありうるのか。「それはあなたの意見でしょ」と決め付けられたとき、「違う、私は自分の利害からだけ言っているわけじゃない、もっと公平に、私にも不利になるかもしれないのに、それでもあえて言っているんだ」と、反発を感じる。「私」のすることが本当に全部「私の利害」という観点から説明し切れるのか。自分には「不利」でも、それでも大切にしているもの、そうしたものを、どうやって説明すれば良いのか。どう伝えればいいのか。

レヴィナスはこういった割り切れない「私」に、それを見直していくことの中に、「生死という利害」(=「存在」)とは別のあり方(=「超越」「存在の彼方」)の手掛かりを見出すのだろう。

これからの議論で、レヴィナスは、この割り切れない「私」が実は「誰」であるのかを、検討していくことになる。私は、本当に独立自存の「私」なのだろうか。それとも「あなた」とより結び付けられた、矛盾し割り切れない「わたし」であるのだろうか。万人に対して闘争する「個人」である以前に、わたしはあなたであり、あなたがあるからこそわたしがあるのではないだろうか。
曖昧である。だが、結論(「断定」)を急ぐ前に、こうした曖昧さを見つめ、それと真摯に向かい合おうとするレヴィナスの議論に、もう少し耳を傾けてみなければならない。




散文(批評随筆小説等) 「割り切れなさ」と懐疑論−「存在の彼方へ」を読んでみる6 Copyright もぐもぐ 2004-07-31 15:36:16
notebook Home 戻る