遅れてきた青年の楽譜
《81》柴田望
《遅れてきた青年》は虚構化された部落の悲劇をぎっしりハガキに書きなぐり新聞社へ送る もみ消しに対する抵抗虚しく空洞化滲む 東京じゅうのテレビの前の人間にNO!と言うだけの怒りの企画 東京じゅうの人間たちと釣りあうくらい暗いかれの素性はストーブの火で化学変化起こす 多様さは一貫している とにかくぶっ壊したい その先のヴィジョンはない 古い神社がひとつ消えたんだぞ だれもが拭う拭いたくない染み抜きの一過性でいいのか車輪の下 しがみつくほど濡れ衣は重く右翼のスパイとみなされ拷問を受ける まるで日本みたいだ かれはいいこと思いついた そうか、屈辱は視聴率をもたらす うちつける電線に雨
《遅れてきた青年》はなり損ねた軍神に羨望する 少年を集わせ 東大法学部へ進み施設長の英雄になったが、思春期の分身に腹を刺される 成り行きさえ防げぬ《いま》の渦の目で《まだはじまっていない》がかれを生かす ああ、戦争が始まろうとしているのに 終わってしまった情事にしか興味がなかったという点ではれっきとした不倫だ かれはかれを刺した一人とは別のさらにもう一人の自分に出会い意気投合 さあ、このうちだれだスパイは? すると影武者は実体化を恐れ首を吊り 伝説になれたのはかれを苛む増殖する分身だけ すると玉手箱ぱかり開き、びっくりしたのはアルファルファ爺さんのスポンサーだけ 歩みののろい浜辺に亀
システムウェア《遅れてきた青年》の目的は抽象的罪悪感の自動浄化処理 同じ悩み持つ同世代の大勢を救う構想だが 大勢にとっての目的とは常に試作品でありたい 基本計画を立て、外部設計を行い、内部設計、プログラム設計、プログラミングと作業を進め、テスト段階にたどり着いた モジュールごとに単体テストを行い、入力と出力の対応が正しいかどうかだけのブラックボックス、及び内部構造アルゴリズムのホワイトボックス・チェック、各モジュールの結合テスト、トップダウンとボトムアップの折衷テスト、綿密に武器を鋭く だれでもどこでも簡単に 運用テストも徹底した 何故ならユーザーとは大勢のなかに潜む一部の凶悪なクレーマー 泣顔に飴
《遅れてきた青年》はかれでありあなた(論理積AND) かれまたはあなた(論理和OR) かれでもあなたでもない(否定NOT) 東京じゅうのテレビの前の人間にNO!と言うだけの企画があったかれは東京の人間だ 政治スキャンダルに費やす時間枠などない かれは恥として注目された 興味の限界分析上限下限いいかげんなやつだ 客寄せのパンダだ そしてコマーシャル かれはにせフェルディナン・バルダミュであり、にせジュリアン・ソレルであり、恋人の堕胎した子どもの父親はにせジェリー・ルイスだ 《本物》とは付加価値にすぎない イデアにしかない 一生贋作のままであってはならない 超難関試験の模擬試験の対策の予科練 日傘に雨
《遅れてきた青年》はわれわれに何も告げない、いや、告げてはならない 青春とは、このやろう許さないぞやそっちよりこっちが上だに縛りつけられた穢れだ 高騰の消しゴム 世界遺産に描かれし相合傘の果て 堕胎した口止め料はさらなる素性の隠蔽だが もはや男でも女でもないかれはゼロから出発できない かれは保守党都知事候補者のよこしまな計画の一部にすぎない 生まれ変われば二度とは戻れぬ線路横切る かれは欲しいものの明確なイメージを創造的思考に焼きつけるべきだったが何もかも不要だ 貧しい借家暮らしでも 新しいじゅうたんとストーブくらい頼んでよかった 部屋の隅々を見直して無駄な空間を排除すべきだ 靴底に亀
《遅れてきた青年》の部屋には窓もカーテンもない 政治的ガレージの二階 置きたい家具や食器 理想のキッチン 二台分の車庫 プール付きの庭 頭の中で理想の家を完成させ 信念はそこで暮らす こうして焼け野原は復興し もはや戦後ではない高層ビル萌え建つ暁 青みどろに揺れる藻に包まれて眠る巨大な巡洋艦 経験豊富な何百人もの士官に任せられたすべての部門 実戦同様の訓練 造船所 製鉄工場 製造にあたった何千人もの従業員たち 数千億個もの部品 材料原料世界各地から運ばれてくる 造船建築家の夢想ひらめく大きくて小さな宇宙 発注した軍部の思惑 やれ、のひと声に関係させられた敵味方億千の人びと眠る 深海に雨
《遅れてきた青年》は《遅れてきた》ことをやめない やめると人間でなくなってしまうはずだったのに しがみつくほど傀儡と化す 時代は変わった どっちみち追い越せないし、間に合ってもだるい 夜、目覚めたら隣りに寝ていたはずの《遅れてきた》がいないぞこれは怖ろしいことか? どこもかしこも空白でかろうじてその縁にうっすらと苔むすノイズさえさっぱりとして血なまぐさくないぞ 近寄りたくないものが臭くないということは…麻痺したぞ、危険、何と比べて? 殺意と愛とをともにつらぬけず 青年はことし七十五歳くらいだ 情報化社会では《まだはじまっていない》も《遅れてきた》も近所仲間 昔話なんてアルトコロにない 吸殻に冷汗
《遅れてきた青年》の殺人はにせジェリー・ルイスがボンネットの向こうに持って行った 永久無罪 将来はフランス帰りの政治家となり 出生の秘密を明かされない子どものよき父親となろう にせものであろうと してきたことの論理積 スキャンダルが視聴率をもたらしても ほとぼりは無限に冷めると知り尽くした いかなる伝説も凡庸であり 幾多の主人公ともども小説自体が脇役化してしまい 次にどんな驚きも背景へと置き換えられたスーパーの喫煙室 世間話の社交辞令驚いたふりしつつの認識の探りあいに ただ思い知らされる主旋律の不在を 永久にヴォーカルのはじまらない整合化されたカラオケ・ヴァージョンで演奏しなさい
参考資料
大江健三郎著 『遅れてきた青年』(1962年、新潮社)
初出『砂の女』2008年7月発行 《81》柴田望