風を見ると懐かしい
木屋 亞万

私は昔、風でした
どこからが私で、どのような私か
わからないままに
木々を揺らし、髪を靡かせ
生きていました

高いところから低いところへ
汚いところも、美しいところも
青いところにも、赤いところにも
流れてゆきました
楽しいところもあれば
悲しいところもありました
刹那の経験が心地よく
蓄積しない経験が辛くもありました

誰かが死んでいても、生まれていても
私はただ通り過ぎて行くだけ
凪げば眠り、吹けば目覚める
死ぬことなどないような暮らしの中にいても
やはり私も死んでしまったので
今こうして言葉を操っているのですが
あなたは風がいつ死ぬか、ご存知ですか

死の瞬間、私はもう風ではありませんでしたので
絶対的な自信はないのですが
私は風という物質であることをやめようと
思ってしまったことが原因であると考えています
私は人間に近い物質になりたいと願いました
秋空の下、一人の若い女性の近くをゆき過ぎた時でした
彼女は広場に腰掛け、友人と談笑していました
そのブラウンのスカートの上を流れていきました
金木犀の香りを乗せては引き返し
夕方の涼しさを乗せては頬に吹き寄せました

どのような木をも凌ぐしなやかさと
どのような砂よりも白い滑らかさがあって
雪、花、雨、森、海、砂漠、嵐、ビル群
私が風として身につけていた幽かな感覚を
余すところなく刺激され
清々しさと情熱が
私を支配しました
私は人間になりたい
実体として彼女の近くへゆけるなら
猫でも犬でも蚊でも蝿でも構わない
そう思ったのでした

私の願いは具体的に死ぬことを要求し
私に蓄積していなかったはずの経験が
実体を持って現れ始め
次第にそれを包み込む皮が現れ
私は人間になれました
都合のいいことに彼女と
あの場所で人として出会えるように
時を移動し生まれていました

最初は嬉しさが溢れて
気が済むまで泣きました
知らず知らずのうちに
笑う素直さを手に入れて
しあわせの塊のようでした
けれど
人間には人間の苦しみがあることに
気付きました
どこからどこまでが自分なのか
皮膚があろうとなかろうと
どうにもわからないものなのだと知り
自分の物質的な外観さえ
客観的に見ることは難しいことを知ったのです

彼女と触れ合える身体になるということは
人間と触れ合える身体であるということで
人間には様々な人がいますので
私のまだ柔らかい中身が
傷ついたり折れたりで最初は大変でした
皮膚を手に入れるということは
心地よい肌触りもあれば
傷つく痛みもあるもので
人間から感じるものもあれば
そうでないときもありましたが
そのうち楽しみと悲しみを
惜しみなく感じられるようになりました

人間の私は頭の中に
はっきりと蓄積していく過去を
忘れることも反芻することもできます
未来をしっかりと見据えることも、
さりげなく目を背けることもできます
私の器官は独立し、
自分のスペースを手に入れ
分業を始めましたが、
私の意思から感覚は離れていきました

いつの日か私は彼女に出会い
そっと触れることができるのです
保障はありませんが
風の頃よりも可能性があります
どのような苦辛を負うとしても
私が生まれた理由は
彼女と物質的に触れ合いたい
という欲望を満たすためですので
耐え忍ぶことができました

私はもうすぐ彼女に触れます
多分、
きっと、
絶対に、
出会います
あの山の麓の
あの広場だったのです
そして
もうすぐ秋なのです





















嘘です
私は嘘をつきました
私は彼女と触れ合えません
想像力を駆使して
彼女と触れ合う可能性を持った自分を
懸命に作り出しては喜んでいるだけなのです
私が風としての機能を停止し
風の命を放棄したとき
私は一人の詩人の呼吸のなかに紛れ込みました

彼女は今、自分の創作物のようにこの詩を書いていますが
違うのです
これは死んだ風の最期の夢なのです
死の瞬間、私はもう風ではありませんでした
彼女の言葉として詩になった瞬間だったのです
私の粗末な風生は彼女のなかに蓄積されたのです
最終的に彼女と触れ合うことはできなくとも
彼女の中にいることができて私はしあわせだと思います

彼女はテレビや雑誌でライオンのゆれる鬣を見ると懐かしくなり
フラミンゴの群れが飛ぶのを見ても、砂漠で風が舞うのを見ても
山が激しく吹雪いているのを見ても、梢が揺れているのを見ても
桜の花びらが風に流れていくのを見ても、白雲の漂う空を見ても
台風が飛行場で暴れるのを見ても、風車が何度も回るのを見ても
誰かが深呼吸をしたときや、思い切りくしゃみをしたときでさえ
風の気配を感じれば、自然と懐かしくなるはずなのです

そして
金木犀の風が頬をすり抜け
彼女の髪を透いたならば
何だか少し寂しい感じがするはずです
それだけで私は
生きていて良かったと思えるのです



自由詩 風を見ると懐かしい Copyright 木屋 亞万 2008-10-03 19:34:38
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