詩の領域
パンの愛人

何を書くか。どう書くか。そしてその先で、何を書くか。
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詩とは何か
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 のふたつを読んで、非常に興味を覚えた。この興味は個人的な事情に由来するものだが、さしあたっては自分がこれらの文章をどう読んだかを整理してみたい。

 一見すると、このふたつの文章は対立しているようだが、実際には「対蹠的」と考えた方がいい。相違は、詩あるいは文学観にあるというよりも、対人観にあると見るべきである。それは、もしかしたら年齢の差によるものかもしれない。(いとう氏は41歳ということだが、実川氏はまず20代と見て間違いがない)
 ふたりとも自身の説明から入って段々に話が啓蒙的に展開してゆくところは共通していて、だからこそ、ぼくらは「詩の歴史を知っておこうとする努力はすべきだ」も「詩という独立したジャンルがあるような思い込みを捨てろ」も無視して差支えがないわけだ。かれらが詩人であるかは知らないが、詩の愛読者であることは間違いない。
 実川氏は「スノッブの化身スノッブを批判する、というのが笑いどころ」と自身で説明しているが、もちろんこの文章で笑う人間はいないし、(意図はどうであれ)いとう氏への反論にはなっていない。実川氏のように「文学」の系譜は信用できても、「(現代)詩」の系譜を信用できないとしても、それは「(現代)詩」の不具に責任があるからで、なにもタームのせいではない。

 実川氏は「文学とは、越境するものである」として「定義不可能を定義する」云々というが、これはまったくのナンセンスである。なぜなら、それが通用するのは実川氏の思惑とは反対に「詩という独立したジャンル」が存在しなければならないからである。それに、もしもこのテクストの論旨が「詩なんて土台定義不能」であるならば、「詩とは何か」という問いを立てる必要もないわけで、そうなれば「そこには果てしなく広がっていく動的なシステム〜」以下は寝言にすぎなくなってしまう。
 「結局のところ仕上がった作品が読者に受け入れられるものなら『それでいい』のではないか?SFに学ぼうが映画に学ぼうが歴史に学ぼうが2chに学ぼうが、何だっていい。」という実川氏であるから、「文学」への信頼がとくに強いのかもしれない。不思議なことに「読者」の存在は一向に疑わないわけだ。実川氏に関してはその他にも「極めて少数の"天才"」が具体的に誰のことなのかなど、気になる箇所がいくつかある。

 いとう氏に関しては、「詩人と名乗るのはおこがましいのではないか、と」という一文が不可解で、というのも、誰が詩人を名乗ろうがぼくらは咎めないし、またくさしもしない。もしくは、たとえどんな努力を払おうとも、詩人を名乗った時点で嘲笑されるひともいるかもしれない。いずれにしろ、いとう氏はこう書くことでみずから詩人を名乗りたいようだが、もちろん、そんなことはぼくらにとってはどうでもいいことなのだ。

 しかし、詩の領域がはっきりしない傾向はあまりに著しい。これは理論的な問題よりも、単純に社会生活の変化が招いた結果のように思える。
 こうなっては、ひとによっては、携帯小説が詩であるかもしれないし、食べかけのピザが詩であるかもしれない。もしくは週末のピンサロ通いに詩を覚えるひともあるかもしれないのである。それをことさら非難するわけにはいかないが、かといってそういったひとたちとスムーズな挨拶を交わすことは困難である。したがって、ぼくらはかれらにたいして、ただ肩をすくめてみせるだけである。
 漠然としたかたちではあれ、自分にとって「詩」という概念が存在するかぎり、たとえそれが独善的なものであろうとも、それを放棄する必要はないと思う。


散文(批評随筆小説等) 詩の領域 Copyright パンの愛人 2008-10-01 03:27:57
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