記憶の階段
かいぶつ

おめでとうございます。
永い道のりだったでしょう。大変ご苦労様でした。
この壮絶な死闘に見事、勝ち残ったあなた様には
新しい生命が授けられる権利を与えられました。
しかしまだそれが約束された訳ではございません。
あなた様には最後にこちらの九十段の階段を昇り切って頂きます。
一見何の変哲もない階段にお見えするかもしれませんが
こちらの階段、一段目から九十段目まで
全てあなた様の前世の記憶によって形成されております。

詳しく説明いたしますと
一段目はちょうどあなた様がひとり歩きを覚えられ
立ち上がるという行為によって世界が広く眺望でき
迅速かつ滑らかに移動できることの爽快さに
深く感銘を受けられた頃でしょう。
二段目は言葉という能力が開花され
言葉には意思表示の道具という役割だけではなく
森羅万象を認識するための記号にもなり得るという可能性に
意識し始めた頃でしょうか。
継いで三段目、四段目は目覚ましい成長を遂げる幼年期となり
少年期、青年期と輝かしい時代を経て
これは個々によって様々な解釈があるかと思われますが
平均的に五十段を越えた辺りからを
老年期と見なす方がほとんどでしょう。
そして九十段目は、そうです。
あなた様に死が訪れた日となります。

しかしながらこの階段、ただ懐古の情を慰むためだけに
用意された訳ではございません。えぇ、残念ながら。
前世の記憶を現生に持ち出す行為、それが生きとし生けるものには
決して許されない行為であることはすでにご存じですよね。
この階段は回顧と同時にその幼少期から死の直前に至るまでの記憶を
一段昇るごとにあなた様の内から残らず消し去ってゆく
つまり、過去を一歩ずつ確実に清算し潔白が証明された上で
輪廻転生していただく為の儀式にあたる重要な階段なのです。
ここまではよろしいでしょうか?
ありがとうございます。

記憶を失いたくないと過去に執着しこの儀式を放棄するか
それとも過去を投げ打ち、新しい生命による
新しい記憶の生成に臨むかどうかは
全てあなた様の判断にお任せします。
それに私どもは一切関与いたしません。
記憶を惜しむ余りに「一段抜かし」等の不正を働き
万一、それが発覚した場合は刑罰の対象となり
何らかの形で懲罰が与えられる結果となります。
そしてなるべくこういったことも避けて頂きたいのですが
階段の途中で辞退されても結構です。
しかし美しい記憶というものの大方は
幼年期に集約されているものですので
辞退する頃合いを一歩でもお間違えになれば
貧しく悲惨な魂になりかねないのでご注意ください。
考慮のお時間はあなた様のお許しになる限りございます。
是非、十分なご検討とご納得のいった形での決断をお願い致します。


左様ですか。かしこまりました。
あなた様のご希望に沿った生命と世界であることを願っております。
準備の方はよろしいでしょうか?
それではお気を付けていってらっしゃいませ!

  〜

「パパ、ちょうちょ、ちょうちょ。」

「こらこら、そんなむやみに捕まえて、
 命を粗末にするような真似するんじゃありません。
 ほら、早く逃がしてやんなさい。」

「あら、このアゲハ蝶、羽が折れているわ、
 かわいそう。羽化に失敗してしまったのね。」


自由詩 記憶の階段 Copyright かいぶつ 2008-09-30 10:55:42
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