不安定な安定—ユーリさんの朗読について
渡邉建志

朗読するときのユーリさんの自意識過剰はメタである。他の人の自意識過剰がストレートに発せられるのとは異なり、彼女はじぶんの自意識過剰をメタレベルから冷静に観察していて、それにいらだちながら読んでいるから、いつも冷静で、かついつもいらだっていて、朗読中に15回噛む事にいらだちながら、そのいらだちが不思議ないらだちリズムとなって聞くものの中に生物的リズムを形成していく。それは、ほかの自意識過剰な人たちのストレートな朗読が即物的リズム(たとえば音楽のビートとあわせてしまうとか。音楽を流した時点でこのひとは負けだ、といつも思う。あるいはメトロノームで練習するとか。音楽でもそうだが、メトロノームというものはあわせるためにあるのではなく、はずすためにあるのだと思う。いかにメトロノームから外れて演奏しまたメトロノームに戻っていくのか、その微妙で絶妙な人間的リズムの訓練のためにあるのであって、決して機械的正確なリズムを刻めるようになるためではないはずだ。ハノンとツェルニーを除く。しかしハノンツェルニーやってるだけでいい音楽がつくれるわけがないのは当然)を刻んでしまうのと好対照を描く。メタレベルへのあり方としてもうひとつの方法論に演劇的な場所に自分をおく方法はある。これはあるいみセルフプロデュースであるが、これはたいていかっこ悪いのでおすすめできない。ユーリさんの特別なところは、セルフプロデューサーたちが立つメタ、つまりトレンドなかっこよさというメタにたたないことだ。ユーリさんはそのかわりに辮髪にたつ。白鳥忍のうしろまわしげりに立つ、あるいはサンセツコンに立つ。そういったマニアックなものの上に立ち、しかもそれを連呼、連呼、連呼し、そこに思わず力んでしまう。「おしっこ」という言葉を力んで発音して「しまう」。彼女の立つメタはそういうところで「自然」であり、作戦的でない。彼女はマニアックな偏愛の後ろに自分を隠す。そこがすごい。その偏愛ぶり、彼女の言葉だったと思うがハクチ的なものへの愛が、彼女をして、「思わず」自然なイントネーションを作らせしめる(これって正しい日本語なのかしら)。つまり、おもわず「白鳥忍」のsを力強く読んでしまう。これは意図したものではなくて、自然な分、なにかものすごいビートとなってわれわれを襲う。後ろ回し蹴りで倒します、と宣言する白鳥忍を再生するユーリさんはもはや彼女自身が白鳥忍であり彼女自身が後ろ回し蹴りを今にもしそうな表情で読んでいる。非常にまじめな顔で無表情にクールに、ハクチ的なことを言う。変態的なことを言う。そこがすごい。その無表情と苛立ち、と、言っている内容(しかも連呼)のギャップ。そして彼女の自然な発音がそれを助長。彼女はすべてを発音しない。平坦に読むことがない。消音や入音が自然とあり、しぜんなクレッシェンドがどこかに潜んでいる、彼女自身が気づいていないどこかにそれがある。それが彼女の武器であるところの偶発性だ。ユーリさんはいつも安定しているがいつも不安定である。不安定さの幅をコントロールできているから安定である。しかし不安定であるからわれわれは興奮する。音楽に合わせてしまう人たちにはこの不安定さがない、どこへいくか分からない怖さなどまったくない、メトロノームの人たちはメトロノームから外れていかない、逸脱の恐ろしさが微塵もない、しかし彼女は次に何を言い出すか分からない。いつどのタイミングでまた白鳥忍の後ろ回し蹴りが炸裂するか分からないのだ、そして彼女がどんなにうれしそうに(いや、無表情なんだが)それを発音するのかをどきどきして待たずには居られないのだ。


散文(批評随筆小説等) 不安定な安定—ユーリさんの朗読について Copyright 渡邉建志 2008-09-18 21:35:10
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