言語解体と凶暴化計画のための箇条書き。
ななひと

・文章を書く基本原理として文法があるのではなく、私達は文法によって書かされているということに自覚的であること。
・明治期からの文法研究は、国学の文法研究をベースとしながら、バックボーンに西洋文法の体系をおくことで、全く別種の「日本文法」を構築した。そして、それは私達が文章を書くときに従うべき規範として現在機能している。それ故に「日本文法」とは怪しげな出自を持つ、近代になって改めて作り出されたものである。
・古典では、ワンセンテンスに一主語一動詞などという原則は全くないし、言葉のつながりの中で、主語、語り手はどんどん変わりつつ、ひとつの文章として流れていく。これも一つの文章の規範であり、全然アリである。
・もちろん古典に回帰することでよしとするわけではない。

・つまり、私達の中に染み込んでいる「文法」なるものをとりあえず疑問に伏して思考することだ。もちろんこの「思考」にも「文法」が入り込んでいるのだから、その作業は複雑になる。

・言葉の持つ多様な「力」を再認識すること。この「力」とは、いわゆる「詩的言語の力」というようなうさんくさいものであるよりは、単純に「力」、他人に「窓を開けさせたり」、他人を「怒らせたり」、この作者の「詩」は偉い、と「詩」読む前に読者がそう思って読んでしまうような「力」であり、「詩」とくくることで「詩」から何故か脱色されてしまう「言葉」の行為を誘発する「力」である。

・「凶暴」であること。
「個人攻撃」の詩がもつ「力」を「詩」の「力」として認めること。
別に、攻撃されたら報復すれば良いのである。
あるいは、傷ついて仲間を集ってうらみ節をいうのもよい。(こちらの方が反撃的「個人攻撃」としては効果がある。
で、そうした殺伐とした意見の応酬の中にこそ、「詩」を見ること。


散文(批評随筆小説等) 言語解体と凶暴化計画のための箇条書き。 Copyright ななひと 2004-07-28 01:14:53
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