詩を書く人のすべてが詩人じゃなくていい
たりぽん(大理 奔)

 
理性・抑制・常識とか教義とか正義とか悪とかという枠は社会にとっては必要なものだが個人の感性の拡大にとっては邪魔以外の何者でもない。それも仕方のないことだろうとは思う。個人の感性の無制限な拡大は、健全な社会の維持にとってやはり邪魔者以外の何者でもないからだ。時に反社会的な悪意ある感性が、より高尚な芸術性を具現化しているように思われるのはこうした「個」対「群」という避けては通れない相対性の中でぐるぐると廻っているからなのだろう。

 なれば「個」の感性を拡大していくために「群」は不必要なのだろうか。それはちがうように思う。仙人のように生き無数の作品を書き上げたとしても、誰の目にもとまらなければそれはなかったことに等しい。文字による記録を持たない人々の歴史を我々が辿れないように。詩を読みたいという欲求は他人の感性に触れたいという個から群へむかう生物としての本能であり、詩を書きたいという欲求もまた個を群へと知らしめるという本能に即した行動でしかない。つまりどこまで行っても「個」は「群」に対して従属的に思えるのだ。

 「個」であることを目指して詩人を名乗る者は孤独じゃないか。群の中で輝くことを欲しながら個を追求することは果てしなく孤独だ。すばらしい作品を遺した先人達はまさに孤独を手に入れて輝いたのかも知れない。その作品を愛して世に伝え残した周囲の人々があって、はじめて我々はその作品を知ることとなる。孤高、あらゆる分野において頂点を極めた人を「スター」などと言うが、高みを目指すと言うことは誰からでも見え、そして一番孤独な遠い遠い場所にカンデラを灯しに行く事なのかも知れない。

 詩人を名乗る人は歴史学者に似ている。筆力で世界を構築し「個」を社会から客観化することで遠い目的地への一里塚をたどっていく人だ。
 
 そして私は「詩人」とは名乗らない。考古学者が発見する土器のかけらや畦の足跡のように、私が生きていたという痕跡のひとつとしてそれら文章が残っていけばいいと思う。時間という遠い道程を越えていけばいい。私という作品は詩だけでは完成しない、それもまた「個」を追求する一つの姿勢じゃないだろうか。

 私は一番お気に入りの一文を石に刻んで安定岩盤の洞窟にでも置いておきたい。次の人類がそれを発見して何を思うかを楽しみにして。





追記:
ネット詩についてもいろいろな意見があるようだが、ブラウザーで読み書きするネット詩はあくまで紙媒体の延長線にしかない。もっともっと、この道具ならではの表現が発見され認められればなぁと思う。それに必要なのは「孤独な個」と「それを支える群」なのだが、そこまでの社会性をネットは持ち得ていないし、持ち得ないだろう。また、ネット上の文章には長期のアーカイブに問題がある。「数百年を越えていく保存性」が生み出す価値をネットは持ち得ないのだ。


散文(批評随筆小説等) 詩を書く人のすべてが詩人じゃなくていい Copyright たりぽん(大理 奔) 2008-09-13 21:10:42
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