「かんちゃんはさぁ」
まどろんでた保健室で突然に話しかけられたんだっけ。
アダムとイブがどうとか、
ノアの箱舟がどうとかこうとか、
新約聖書と旧約聖書の区別もついてない私には
さっぱりわからなかったけれど、
教室でつまらない授業を聴いているよりは、
ナベくんの声は心地良かった。
倫理の授業は寝ているところしか見たことがないのに
切々と聖書について語っていたね。
なんかデカルトみたいだな、
なんて習ったばかりの人物にどうでもよく例えてみたりして、
そうしてよくわからないうちにパンドラの箱とかいうくだりで、
私は話を止めたナベくんを見た。
「なんで、希望が残ったんだろうね」
その前後はあんまり頭に入っていなくて、
その一言だけが保健室に響いたように聴こえた。
なんで希望が残ったんだろうね。
パンドラの箱が何なのかもよくわからない私に聴く、
ナベくんの顔は真剣だったね。
「かんちゃんはさぁ、どう思う?」
あの時の私も、
真剣に希望が残った理由について考えていた。
秋だったんだろうか、
風に飛ばされた葉っぱが窓について離れないのが目について、
午後の五限目、倫理の授業。
私とナベくんが保健室に居残った、
そんな理由はなんだろうとふと思ったりもした。
「一番残ってはいけないものだったからだよ」
私とナベくん、が保健室に居残ってはいけない理由が
ひとつくらいはあったかもしれないね。
ふーん、面白いね。って、
私の返答をナベくんはそんな風に言っていた。
「かんちゃんはさぁ」
早朝七時半。ナベくんは何気なくやってきたね。
生物準備室に。何気なく扉を開けて。
ひとり教科書を開いて、シャープペンシルをくわえて、
ぼーっとしている私の前にイスを持ってきては話し出した。
町の文化会館で、
山田かまちの作品を集めた展示会をやっているという話。
そういえば、図書館にいったときにそんなポスターを見た。
十七歳でこの世を去った彼に、
私とナベくんは興味を持った。
果たして同じところに興味を持ったのかは、
私にはわからなかったけれど、
同じ十七歳というたったそれだけの共通点で、
彼も私もナベくんもつながっている気がしたよ。
「かんちゃんはさぁ」
今度はサイモン&ガーファンクルの話だった気がする。
「サウンド・オブ・サイレンス」が好きだよと答えると少し驚いて、
アルバムを何枚か持っているから貸すよと言ってたね。
覚えてるかな。
私とナベくんの共通点はやっぱり十七歳ということと
サウンド・オブ・サイレンスを聴いたことがある、
ということくらいしか見つからなかったけれど、
People talking without speaking
People hearing without listening
そんな言葉のないやりとりや、
あいづちだけのやりとりなんて、
私とナベくんにはなかった気がするんだ。
「じゃ」
八時半になった。
ホームルームが始まる少し前になると
気づいたように去っていった。
ナベくんは去っていったね。
そんな後ろ姿を見送りながら、
私はほんの少しのさびしさにとらわれたみたいだった。
それからしばらくしてからだったと思うんだ。
私は生物準備室にいくこともなくなり、
保健室に行くこともなくなり、
授業など教科書ごと放り投げていた。
心配した担任が電話をよこし、
心配した友達が家まできて、
心配した親が病院に連れて行った。
世界が私への心配で回っているようでいて、
気持ちが悪かったんだ。
ナベくんは何をしてるだろう、
そんなことも考えなかった。
私は部屋にいて、夏か冬かもわからないほど
閉め切ったカーテンを開けることをしなかったし、
昼か夜かもわからないほど、寝ては起き、
何かをつまんで食べてはまた眠り、
時たまパソコンを開いてはネットをし、
ただ呆然と、生きる意味などあるんだろうか、
などとありきたりなことを考え、
ナベくんのことを忘れていたんだ。
それから約半年。そんな気がする。
ある日、父が突然部屋に入ってきて私に声をかけた。
そうして、なんか届いたぞ、と私の方に放り投げた。
手にとって見ると、
透明な封筒にパズルのピースが入っているようだった。
父は不審がっていたけれど、
私は何のためらいもなく封をあけ、
パズルのピースをひとつひとつはめていった。
「かんちゃんはさぁ」
声が聴こえたような気がしたんだ。
まだ私は覚えていたみたいだった、ナベくんのこと。
数分後に出来上がったのは、
山田かまちの「プリーズ・ミスターポストマン」の絵だった。
展示会、見にいってたんだね。
小さなパズルを裏がえすと、
初めてみるようでいて懐かしい、
そんな文字が浮かび上がった。
こんにちは、突然ですみません
誰かに手紙が書きたくなったのです。
お体の方は大丈夫でしょうか。
今年のかぜは
性質が悪いそうです。
くれぐれもあまり無理をしないよう。
本当は伝えたいことがたくさんあるのに
上手く書けません。
だから、今度この世界のどこかで会えたら
その時に、話したいと思います。
じゃ、その時まで
by ナベ 2003.2.3
生物準備室にて
「たち」なんて、
手紙にわざわざルビふってあるあたりがナベくんらしくて
ちょっと笑ってしまった。
この世界のどこかで会えたなら、
ナベくんとどんな話ができるんだろうと思った。
この世界のどこかで。
その時まで。いつだろう。
そんなことを考えるとなんだか涙が溢れてきた。
返事なんて出来なかった。
プリーズ・ミスターポストマン。
ナベくんは私のポストマンだったよ。