「批評」という運動が体現する解釈の現場
ななひと
「読み」の中に批評行為自体を含み込んで「読み」が実践されている過程を運動としてとらえてみる。
ここには、批評する者、批評される者、そして批評されるべきテクストが存在している。
批評する者はある種の権力をもって(それが共同体の読みの枠組みにとって正当なものとみとめられているにせよ)テクストの完結性を留保する。そして、それに変わるべき別の言葉なり字数調節を行う。もちろんそれにはそうすべきであるという理念的保証がへばりついている。批評される者は、それに対して、いくつかの反応をとる可能性がある。以前の状態とそれを比べ、全体のフレーズを重ね合わせて二重のイメージを出現させ、どちらが美的規範意識にそうか判断するだろう。それがもし、批評者の言う通りであれば批評者が意味づけた意味を承認することになるだろう。
しかし、ここで一度立ち止まって考えてみるならば、ここにおいては、かなり複雑な解釈の理念操作が行われていると言うことをみのがせないだろう。ここにおいて、もとの言語は一旦言語という資格を持つ場から排除される。しかしにもかかわらず、それは、もとの言語の排除という形で、その場に意味の痕跡を残すだろう。そして新しく配置された単語は、その意味の痕跡の上に、決して痕跡を消し去ることができないまま、その位置に配置されることになる。そうしてその痕跡は、不可避的にその場の概念を一時的に多重にするのである。そして批評者、被批評者は、ともに、その重ね合わされた二つの言語の像を精神の上で分離し、そして別の側を焦点化し、どちらがより批評的にすぐれた表現でありうるかをその多重の重なりの中で判断するのである。そして片方の要素はその場から排除される。しかしそれは全く消え去っていくわけではない。それはかつて存在していたもの、でありつづけるが故に、画定化された意味の影となって存在し続けるのだ。比較によって、より適当なものは、より適当であるという資格を得るのである。もちろん作業はもっと複雑である。今のは共時レベルの話だったが、今度は、今画定したばかりの単語と、つながる単語、統辞的な連結が問題化されることになるだろう。それぞれの語はそれぞれ、意味やそれが連想させる概念や、あるいは音的特徴を雑然と持った物として立ち現れてくる。それらが相対的に検討され、二つの語の連結が、意味的に、連想概念的に、音律的に「妥当であろう」あるいは「十分に詩的であろう」と見なされる規範に従って配列されることが決定するだろう。ここでも、この結果によってのみ、物事はとりあげられるべきであるとかんがえてはならない。批評家と被批評家の間には、この作業を通して、多岐に渉る美的公準線に関する思想・感覚をぶつけ合わせあるいはすりあわせるのであり、そしてそうしている間、二つの対象は、制御に無関係に意味・音の衝突と連続を繰り返し、連想は不定形に無意味と意味の閾値を往復するだろう。こうした意味をめぐる祝祭が批評家と被批評家の中の精神的葛藤をへた合意形成によって、ある一定の枠組みにおさめられていくのだ。
批評とは決して、作品という既に書かれたものに、手を加えていくというだけの作用ではない。そこにおいては、批評家・被批評家をめぐる精神的ヒエラルキーをめぐる二つの精神のすりあわせ運動があり、そしてまた改変されていくテクストは、改変されるというまさにそのことによって、多重な運動を展開するのだ。もちろん、そのことは、批評によって作品が完成された後でも変わらない。一枚の絵は多くの「そうではなかった可能性」に常に脅かされているのであり、音声の転写=記号としての言語は、活字化されることによって透明化され(たと一般的には幻想される)さまざまな意味、連想、図像的痕跡、物質としての本性が進入してくることを防ぎきることはできないのである。そうであるとすれば、批評という行為は、極めてその行為自体が乱雑で多重な概念が呼び集まり跳梁跋扈するまさに祝祭の現場なのであり、決して、「批評開始」→「批評終了」→「より優れた作品の出現」、という単純な図式に収まりきるものではありえない。それは以上論じてきた把握不能なほど豊穣でありうる運動を全く消去することにほかならない。言語との接触は、決して単純で静的な結果の状態を見て満足すべきものでは決してないのである。
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