詩を読むこと=読まれること−幸福と殴り合いの
ななひと

とりあえずここで、書かれた詩作品は、それを書いた作者とは一旦切り離されたものであると考えよう。もちろん、現実にその詩を書いたのはまぎれもなく作者であるし、作者は思いつけばいつでも書いた詩を書き換える・あるいはいっそのこと捨ててしまう権利を持っていることは確かなことである。
しかし、詩作品として読者に提示されたテクストは、作者がもうコントロールできる範囲を超えてしまうということは、おそらく当たり前の前提としてみなが考えていると思われる。というのも、読者は、自分の持つ言語によって、テキストに向き合うからであり、作者が詩を創作するときに感じたこと、あるいは読者に感じてほしいと表現したことは、作者の思い通りになるとは限らない。読者は[読者→テクスト]という関係から詩を「読む」ことになるのであり、作者が読者の精神を直接操作できる可能性がない限り、読者は読者自身の言語背景言語の持つその人にとっての意味合い、を基準にテクストに向かうことになる。もちろんこれも全く不変なものではありえない。初読目と2読目では感じ方が違うかもしれないし、初読では気づかなかった別種の感想を抱くかもしれない。あるいはまた、この読者が、作者のことをよく知っていて、作者がある言葉に対してどんな意味づけ、連想を持っているか、推測できるかもしれないし、単に作者に対する個人的感情がいい意味でも悪い意味でも詩の読解を方向付けていくかもしれない。他にも解釈を左右させる要素はいくつもあるが−たとえば読者は作者に対して詩の先輩で尊敬しているかもしれないし、逆に後輩で、そういう種類の好意を抱いているかもしれない。
詩を、限りなく先入観なしに読むということは、それほど簡単なことではないと思われる。
こういうと、たとえば、作者を不明にして詩のテクストだけに向かい、できるだけ客観的な批評を試みることは可能だと思う方が多くおられると思われる。
しかし、たとえそうしたとしても、読者には様々な外的文脈が作用してしまっている。いわゆる「客観的」とはどういう態度なのか?−これも、詩の投稿サイトで錬磨している方は、それができると思うかもしれないし、逆にそれを通り越して、批評の基準なんて確固たるものとしてはないと達観しておられる方もいると思われる。
しかし、その準拠枠も、ある種の「これが客観的だ」とどこかで暗黙の前提になった土台を持っているはずだし、ネット詩にも様々な評価軸があり、詩の規範的批評の方法論があり、それによって詩のサークルがいくつにも分かれて存在していることを考えれば、それも完全に不変の信頼体系ではありえない。もちろんそれを否定しているのではなく、それは、ある種の解釈の了解を共にする者たちの間では十分機能しているのだし、その意味で極めで合理的で洗練されたシステムと考える。
さて、そのようにして「読まれる」テクストは、「読者」には、別の意味と効果を持って立ち現れてくることになる。これも当たり前といえば当たり前。
そこから、「読者」は、その立ち現れた意味を、どう他人にも了解可能な言語で表現するかの問題に直面することになる。
作者に対して批評をしなければならない場合、「読者」は様々な葛藤を抱くことになるだろう。もちろんここにもまた、「読者」と「作者」の関係性が入ってくる。「作者」が、「何いってもかまわないよ〜」(この言葉が文字通り真実であるかは別として)と言っている場合もあるだろうし、それはそれぞれの「読者」と「作者」の関係が存在するだろう。
もちろん、「何でも好きなことをいってよい」という了解があることもあるだろう。しかしそういう場合でも「良かった」「面白かった」ですむ場合は少ないだろう。(という意味では、何でもいってよいというのはやはり言葉どおりではありえないともいえるのかもしれない)いや、それですむならそれはそれで良いのである。
さて、面と向かってなにがしか含蓄のあることを言わなければならないとした場合、そこには必ず言語的暴力が発生する。これは、作者の側が、何を言われても貴重な意見として受け止める、と覚悟していても不可避的に発生すると言わざるをえない。なぜなら、その意見を聞くことで、「作者」は、「読者」の価値観、言語的背景を、一旦は受け取らざるを得ないのであり、「作者」が、その後、その意見を取り入れるにせよ、やはり自分のもとの表現を貫くにせよ、「読者」のもつ価値体系、言語的背景を、「作者」は既に知ってしまったという記憶を消すことはできないからである。すると「作者」にとって、テクストのその個所は、ある別の言語的背景を知りつつ、それを受け入れない表現、というものに変わらざるを得ないのである。もちろんこれに「読み」の深化という名前をつけることは可能である。批評・感想という行為は、こうした、「作者」と「読者」の詩的言語の接触であり、そこには不可逆でしかありえない意味への暴力行為が常に発生する。もちろんこの「暴力」を意味の「深み」の獲得ととらえることももちろんできることである。
しかしこの「暴力」は、より凶暴に「作者」を脅かす可能性も十分にある。「作者」はその結果、作品の大幅な書き換えをするかもしれないし、あるいはその詩を捨ててしまうかもしれない。
こういう場合「酷評」という言葉が呼び出されるのかもしれないが、「批評」であれ「解説」であれ「オマージュ」であれ「酷評」であれ、以上のような言葉をめぐる多様な接触が起こるということは変わらない。ある種の「賞賛」が「酷評」と同義になる場合があるように。
もちろんここで述べたことはおおざっぱな思いつきに過ぎないし、いわゆる「作者」が「読者」と頻繁に意見交換するという場でしか起こりえないことである。
また、投稿サイトにもいろいろなカラーがあるように、それぞれの場で、支配的な規範意識が多様に存在しているのはまぎれもない事実である。
だからこの文章は、全くの想像的仮定に基づく、一種の空論であり、これを読む読者がどのように考えるかは全く別の問題である。


散文(批評随筆小説等) 詩を読むこと=読まれること−幸福と殴り合いの Copyright ななひと 2004-07-21 07:32:45
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