フライフィッシングと詩
北村 守通

自分は多趣味すぎると思う。
釣り、釣具の製作、合唱、水泳、料理、読書、文章を書く、モデルガンにガスガン、パチスロ…幾つか休止しているものはあるものの、よくぞこんなにあちらこちらに手を出しているものだと我ながら嫌になってくる。
この中の『釣り』についても、魚種や釣り方に的が絞られていれば良いのだが、あいにく何にでも興味を示してしまう私はありとあらゆる釣り方に手を出してしまっている。
そんな釣り方の中でも特に自分の心を掴んでしまっているものに『フライフィッシング』という釣り方がある。釣り鉤に鳥獣の毛を巻いて作った『フライ(毛鉤)』を専用のタックル(道具)でキャストし(投げこみ)主に鮭鱒の類の魚を狙う釣り方である。一時期は映画「リバーランドスルーイット」や十和田湖の観光CMで吉永小百合さんが湖に立ちこんで釣りをするシーンが流れていたこともあって、釣りをまったくしたことのない人でもその風景の一部を目にしたことはある、という人も少なくないかもしれない。
フライフィッシングの道具立てはいたってシンプルである。勿論、道具のシンプルさだけを見れば日本の釣りの中にはもっとシンプルなものが幾らでもあるのだが、鉤をより遠くまで投げ、時として大型の魚ともやり取りしなければいけない、という条件の中でこれだけシンプルな釣り方もなかなかないと思う。
長い年月をかけて編み出され、尚且つ様々なエキスパートたちによって進化し続ける、その独特のキャスティングに触れるだけでもフライフィッシングとは実に人を虜にさせる要素を持っている。
ただ、キャスティングが上手くなれば釣りが成立するわけではない。どのコースにフライをどの様に流すかが出来ること、魚の求める状況に応じたフライが用意できていないと釣りとしては成立しない。
このフライの部分は俗に『コマーシャルフライ』と呼ばれる市販品を用いることもあるが、基本的には釣り人自身の手で作って用意する。餌釣りならば、前日に目の前の庭を掘ってミミズを入手しておく、といったところか。ただし、ミミズはやっぱりもともとその形をしているものであって、フライは作らなければフライではない。例えよい文章なり、言葉なり、現象なりと出会って心の中に描き留めておいたとしても、実際に書いてみなければ文章にはならない様に。(例えとして変だったろうか?)
このフライを作る工程はそれ程多くはない。作るタイプにもよるのだが、基本的には5分から30分程度もあれば一本の毛鉤を作り上げることができる。同じ擬餌であるルアーだとこうはいかない。木を削り、錘を入れ、塗装を繰り返し…とても一日二日では終わらない長い長い工程が必要となる。(これも作る種類によって大きく異なってくるが)
ではルアーを作ることは難しくてフライを作ることは簡単なのか、というとそうではない。二つとも、基本的に一つの工程が命取りになるのでどちらも気が抜けない。求められるポイントも共に作者によって異なってくるが、結局、納得した物を作るには練習しかない。
ただ、フライとルアーの製作についてもっとも異なる点は完成したものの原材料の特性がどれだけ活きてくるかということだろう。フライでは使った材料がそのまま目に見える。材料に手を加えることなく、どの様に組み合わせて組み立てていくかがバランスを左右する。一方ルアーでは塗装を施すわけであり、原材料は外見からでは見えてこない。made byがフライでmade ofがルアーに当てはまる。
随筆がmade byならば小説はmade ofの世界だろうか。そして詩はどちらともとれる。
自分の作る詩はどちらだろうか、と考えたときやはりmade byだと思う。勿論made ofの世界にも挑戦したいとは考えているが、そこにいくまでの工程過程を知らないし、先に手をつけてしまったmade byの世界についても反復練習が不足している、と痛感している。


散文(批評随筆小説等) フライフィッシングと詩 Copyright 北村 守通 2008-06-30 17:47:22
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